毎日ヶ原新聞

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四日市銘菓「太白永餅」(2018年月イチ日本・2月編;その12)

イメージ 1 ▲伊勢茶とともに、四日市銘菓「太白永餅」。

 

 2018年2月24日、金城軒。

 

 四日市では、お昼にニンニクごろごろの「四日市とんてき」を堪能したあと、午後2時から会議に出席。コーヒーブレイクでは、地元の方々のご協力で四日市の観光物産ブースなどがいくつか出ていて、その中に、事前に地元の方から「四日市に来たらぜひ食べるべし」と勧められていた四日市銘菓「太白永餅」のブースもあったので、これは食べてみないわけにはいかない。「太白永餅」が特産の伊勢茶とセットで100円!でしたので、さっそくいただきます。

 

イメージ 2 ▲うすべったくてほんのり焼き目がついて、なかには小豆餡。おいしい。

 

 「永餅」とは、小豆餡を包んだ餅を細長くうすべったく延ばして火で炙った餅菓子。「永餅」を四日市市内で製造販売しているのは「笹井屋」と「金城軒」の二大老舗があるそうですが、元祖は「笹井屋」の方らしい。

 

 三重県は古くから、伊勢街道と熊野街道が通じていたことから、旅人が立ち寄る茶屋が軒を連ね、餅菓子文化が発展したとされます。特に、今の四日市市追分には、東海道と伊勢街道の分岐点があり(だから「追分」という地名になったのでしょうが。)、東海道五十三次の43番目の四日市宿と44番目の石薬師宿の間にある「間の宿(あいのしゅく)」でもあったので、ここにも茶屋が並び、多くの旅人がここで一服したことでしょう。戦国時代の1550年(天文19年)に「笹井屋」の初代がここに茶屋を開いて創業して出し、街道をにぎわすほど評判になった名物餅が元祖「なが餅」。「日永の追分」の地名にちなんで名付けたものだそうです。現存する店の中では「笹井屋」が最も古いそうです。

 

イメージ 3 ▲「金城軒」の9個入り。外箱が包装紙でくるまった状態です。

 

 二大老舗のもう一つ「金城軒」の創業は1868年(明治元年)3月、やはり茶屋として伊勢参拝に訪れる人々に出したのが始まり。「笹井屋」の方は「なが餅」といい、「金城軒」の方は「太白永餅」と名は異なれど、どちらも宿場の茶屋で旅人の疲れを癒やす甘味として評判だったことには違いありません。ただ、「金城軒」の「太白永餅」は、箱の中に入っているお店のしおりを見ても、なぜ「太白」と名付けられたかは書いておらず、判然としません。

 

 ところで、四日市の地元の人たちや何度も四日市に来たことのある人たちに聞くと、みなさん口をそろえて、「『なが餅』、おいしいからぜひ食べてほしい!食べるなら『笹井屋』より『金城軒』。ただ、店がJR四日市駅の近くなので、ちょっと遠くて、今回は行けないかもね~」とおっしゃいます。いやいやちょっと待ってよ、そこまでオススメしといて遠いから無理かもだなんて、そんな薄情な~~(涙)。

 

イメージ 4 ▲伊勢神宮の前を通る大名行列の絵が描かれた外箱。文庫本は関係ございません。

 

 「笹井屋」は「餡は北海道小豆を独自の製法で炊き、餅は厳選した国産もち米を丹念につきあげる。独自の製法で炊きあげた餡を包み、平たく伸ばし両面を香ばしく焼き上げました」、「金城軒」は「厳選した国内産の餅米と北海道産の小豆だけを使用しています。添加物は一切使用せず、一つずつ手作りで焼き上げております」「丁寧にあくを抜ききって蒸したつぶし餡をやわらかい餅がくるむ」、どちらも同じようにおいしそうですが、なぜナガモチストたちは「金城軒」を勧めるのか。その理由を尋ねると、「『笹井屋』のは真空パックになっているのでいまひとつ」なのだそうだ。(「笹井屋」は厳密には「脱酸素剤封入包装」らしいです。)

 

 いずれにしても、「金城軒」は遠いから食べに行けないか……と落胆していたら、その「金城軒」さんがわざわざ会議のコーヒーブレイクに急遽ブースを出してくれることになり、こうして会場で食べられたばかりか、9個入りを買って帰ることもできたのでした。うれしい~。確かにできたてのお餅のやわらかさに焦げ目の香ばしさとパリパリ感、それに小豆餡のやさしい甘さがたまらなくおいしく、伊勢茶にも合い、感動しました。脱酸素剤封入包装ではないので日持ちはせず、だからこそ地元でできたてを食べるのがベストです。また食べたいです!

 

イメージ 5 ▲箱のふたを開けますと個包装された「太白永餅」が出現。やわらかいうちに食べてしまおう!