奉天駅、竣工100年
▲奉天駅舎中央のオープンペディメント。辰野式と呼ばれる様式だ。
2011年4月9日、満鉄五大停車場。
瀋陽駅は昔の「奉天駅」。赤レンガの東京駅に似た駅舎が今も現役として使われていることで知る人ぞ知る駅ですが、2007年頃から、地下鉄建設のため駅舎前の駐車場スペースなどが工事現場になり、囲いで覆われてしまって、正面から駅舎を見ることができなくなってしまっていました。
今回、投宿したホテルから散歩がてらふらりと駅前へ行ってみたところ、地下鉄はすでに開通していて駅舎前は再び駐車場に戻り、また駅舎全体が望めるようになっていたではないですか。
再び全体が見られるように。
工事の囲いが取れました。
駅舎前の駐車場スペースなどの広場のど真ん中には、地下鉄工事前までは「戦車記念碑」がありました。1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄して中国東北地方に入ったソ連軍は、同月24日に瀋陽に至り、日本軍との間で戦闘が行われます。そして、最終的に勝利を収めたソ連軍が、犠牲となったソ連軍将兵の栄光を讃えるために1945年11月に建てたのがこの記念碑。しかし、地下鉄開通後はこの記念碑はなくなり、土台だけが残っていました。
地下鉄の入口ができてた。
さて、この瀋陽駅、改めてご紹介しますと、竣工は1910年です。よく「赤レンガの東京駅をモデルにした」と言われることがありますが、赤レンガの東京駅の竣工は1914年ですから、実は奉天駅のほうが先輩です。
デザインが似ているのは、奉天駅は東京駅の設計者である辰野金吾の弟子である太田毅の設計によるものだからでしょう。奉天駅は1899年(光緒25年)に東清鉄道南満州支線の駅として開業しましたが、それから10年余を経て、この駅舎が竣工するのです。開業当初はこの駅舎の2階に満鉄直営のヤマトホテルが併設されていたそうです。ヤマトホテルはその後、今の中山広場のロータリーに面した場所に1929年に竣工した建物に移ります。今もその建物は「遼寧賓館」として健在です。
赤い看板がなきゃいいのに。
左は出口、右は切符売場。
いわゆる満鉄時代には「満鉄五大停車場」と称する駅がありました。それは旅順、大連、奉天、撫順、長春の5駅で、このうち真っ先に建てられたのがこの奉天駅です。レンガと白い石材を使うQueen Anne式と呼ばれる様式で、オープンペディメント(三角破風)が中央と両翼についた外観をもち、辰野金吾の名前から辰野式(フリークラシック様式)と呼ばれたそうです。
この奉天駅は、浅田次郎の小説「中原の虹」でも、「王永江は竣工したばかりの奉天駅内で辻占いをしている。奉天駅の美しい意匠が好きでならなかった。建築の知識などははないけれども、日本人の建てたこの駅舎は、人間でいうなら絶世の美女である。中央玄関のホールに折りたたみの卓と椅子を据えてじっとしているだけで、美女の胸に抱かれているような陶然たる気分になる。ホールに歩みこむ前に駅前広場を歩いて少し遠くから駅舎の全容を見る。折りしも夕陽を背負ったこの時刻は、美人が最も美しく見える。(中略)温かな桃色の煉瓦と純白の大理石とを組み合わせた駅舎は中央に大きなドームを頂き、両袖の尖塔にも同じ緑色の冠を載せている。日本人の造ったものに感心してはならぬ、と良心が囁きかけるのだが、やはり美しい。」などのように描かれています。
▲出口前。到着列車案内板が各地からの到着列車を告げる。