毎日ヶ原新聞

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【社説】その日の羽田空港

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193423.jpg ▲3月12日午前3時8分の羽田空港国内線第1ターミナル出発ロビー。

 

 2011年3月12日午前3時、羽田空港国内線第1ターミナル。

 

 3月11日、M9.0という未曾有の大地震が起き、東北から関東の太平洋側を中心に甚大な被害をもたらしています。被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。

 

 3月11日、僕は北京発09:25の中国国際航空CA925便に乗って成田へ向かいました。定刻13:55到着のところ、20分ほど早着となり、預け荷物もなかったので、するすると入国手続を終えて、13:59発の「スカイライナー22号」に乗ることができました。日暮里には14:39の到着です。

 

 まずはいつものように北区西ヶ原の床屋へ髪を切りに行くつもりだったので、日暮里で14:44発の山手線1470G列車に乗り換えました。1470Gは田端到着14:48です。

 

 田端駅に着いてドアが開いたのに、なぜか車両が揺れています。あれ、おかしいなと思っているうちに揺れはだんだん大きくなり、車両が左右にゆっさゆっさと揺れてきました。「あ、地震だ!」車内にいたほうがよいのか、ホームに出たほうがよいのか。車両は今にも倒れそうに揺れています。ホームは電線や天井から吊された駅名標などがこれまたゆっさゆっさと揺れています。

 

 けっこう大きな地震だったなと思いつつ、この時点ではどんな被害が出ているんだか出ていないんだかまったくわからないので、とにかく電車は地震が起きたら運転再開に時間がかかるものだからと電車はあきらめ、駅前に出ました。しかしタクシー乗り場は長蛇の列でしかもタクシーが来る気配はなかったので、徒歩で明治通りへ出て、都バスを待つことに。そう待たずに池袋東口行きのバスがやってきましたが、ここでまた大きな揺れが。電線がゆっさゆっさと揺れています。これは先ほどの地震の余震でしょうか。

 

 バスはバス停まで来ましたが、ここで全車運行停止命令が出たということで乗車できず、そのまま停車して運行再開を待つことになりました。しかしこれはそれほど長く続かず、20分ぐらいで運行再開になったので、これに乗って滝野川三丁目のバス停まで行き、床屋へたどり着くことができました。

 

 しかし、床屋へ行くまでにわたった都電荒川線の踏切からは、西ヶ原四丁目電停で都電が停車したまま運行打ち切りになっているのが見えたし、床屋のテレビでは想像を絶する地震被害のニュースが次々と報じられているではありませんか。その上、首都圏の交通機関がほぼ完全に麻痺していることもわかり、僕自身の身動きもとれなくなりました。その日の宿は羽田空港内のホテルを確保していたのですが、行けるでしょうか。

 

 午後5時半頃、散髪は終わりましたが、どこへも行きようがありません。学生時代から通っている床屋なので、じゃあもう飲もうということになり、床屋でごはんをごちそうになりながら床屋のにいちゃんと酒を飲み始めました。ありがたいことです。

 

 午後9時過ぎ、東京メトロが動き始めたとのテロップがテレビに流れました。銀座線、大江戸線と動き始め、やがて三田線が三田まで、浅草線泉岳寺~浅草橋間の運行が再開したことがテロップに流れるのを見た僕は、床屋を辞し、とにかく泉岳寺へ行くことにしました。泉岳寺に着く頃には京急も回復しているかもしれません。

 

 泉岳寺に着いたのは午後11時半頃。しかし京急は運行を再開しないことに決めたとのこと。この時点で僕は、何時に着けるかわからないのでホテルの部屋はキャンセルし、西へと向かう群衆とともに徒歩で羽田空港へ向かうことにしました。

 

 国道15号線は上下線とも車で埋まり、ぴくりとも動いていません。未曾有の大渋滞です。歩道も帰宅したい人々で埋まっていますが、こちらは流れています。みんなずんずんずんずん元気に歩いています。途中品川駅前ではタクシー乗り場にものすごい列ができていましたが、タクシーは来ないし、仮に乗れても15号線がこの状態では前進することは難しいでしょう。

 

 品川駅の先の京急の踏切では上下線に車両が一編成ずつ停まっていました。地震発生とともに停止し、そのままになったのでしょう。いつもは24時間営業の沿道のファミレスなども閉店してしまったところが多く、コンビニはすべて営業中ですが、徒歩帰宅の人々によっておにぎり、弁当、パン類の棚はすっからかんで、カップラーメンか菓子類ぐらいしか腹にたまるものは調達できません。

 

 大森町から国道131号線に入ったあたりからともに歩く人の数が減り、車もスピードを上げて走れるようになりました。大鳥居から天空橋に出たところで目の前に羽田空港国際線ターミナルが広がり、ちょっと感動しました。しかしそこからがまた長く、足は痛いわ腰は痛いわ、ほとんど倒れそうになりながら、泉岳寺駅を出てから歩き続けること3時間半、日付が変わって3月12日午前3時ちょうど、僕は羽田空港国内線第1ターミナルに到着しました。靴を脱いでみると足は血まめと靴擦れで血みどろになっていました。

 

 ターミナルの中は、滞留した人々が支給された毛布をかぶって、思い思いの格好で休んでいました。このような光景は初めて見ますが、どこかの強制収容所のような雰囲気で異様です。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193414.jpg 到着階も、

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193418.jpg 階段も、

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193429.jpg チェックインカウンター前も。

 

 北ウイングの一角にはテレビがあり、地震関連情報がずっと流れています。この周りにはとりわけ人が多く、眠っている人も多いですが、食い入るようにテレビを見ている人も多いです。地震発生時は「けっこう大きい揺れだったな」と思う程度だったのに、床屋やここ羽田空港で見るニュースは、三陸沿岸を中心にした信じられない光景を次々に流していて、羽田空港に滞留している多くの人たちも不安そうにニュースに見入っています。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193435.jpg テレビでは被害情報が。

 

 この日羽田空港に滞留した人々には、毛布と非常用食料セットが配られたようです。僕は午前3時になってから空港に到着したので毛布はありませんでしたが、非常用食料セットはもらえました。中にはペットボトルの水が2本とパンの缶詰が一つ、おかずの缶詰が三つ、梅干しのパックが一つ、水を加えると食べられるようになる白米と混ぜご飯のパックが一つずつ入っていて、けっこうな量です。もちろん、自動販売機は稼働していましたし、翌朝には売店やお土産店、レストランもほぼ通常どおり開店したので、実際にこの非常用パックを食べきった人はいないかもしれませんが、空港の床の上で一晩明かすのに安心感を与えてくれます。僕も出発ロビーの一角に場所を占めて、せめて朝5時まで1時間半ぐらいは眠りたいと床の上に横になりました。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193449.jpg 非常用食料セットの中。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818193441.jpg羽田空港に滞留した人々に配られた非常用食料セット。これがあるのとないのとでは安心感が違う。