毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

なつかしの上海浦江飯店(後編)

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204232.jpg ▲蘇州河に架かるガーデン・ブリッジのすぐ向こうが浦江飯店。

 上海の浦江飯店、開業は1846年のこと。当初は「Richard's Hotel and Restaurant」、中国名は「礼査飯店」と呼ばれていました。経営は英国商人A.リチャード。1856年には外白渡橋が架かったのに伴い、現在の場所に移転し、1860年には英国人ヘンリー・スミスが経営を引き継ぎ、名称も「Astor House」と変わります。1910年には現在の5階建てホテルの原型が建設されます。新古典主義(ネオクラシシズム)、ビクトリアン・バロック様式の石造りのこの建築は、黄浦路楼、金山路楼、大名路楼、中楼、そして交易大庁の5つの部分から成り、戦後の1959年に政府の管理が加わって「浦江飯店」となりますが、英語名は今も「Astor House Hotel」のままです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204310.jpg 浦江飯店正面玄関。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204304.jpg 重厚感漂う1階ロビー。

 このホテルには、世界的に著名な人物も宿泊しています。1895年には、清朝の直隷総督・北洋大臣で、日清戦争終結時の下関条約清朝全権として署名した李鴻章。1922年には3階304号室にアインシュタイン。1931年と1936年には4階401号室にチャールズ・チャップリン

 そんな由緒あるホテルが、いつの頃からか、バックパッカー御用達のドミトリーがほとんどというホテルになってしまいました。80年代に入って外国からの旅行客が飛躍的に増えたのを受けて、生き残り策としてそうしたのかもしれません。「船を降りたらプージァンを目指せ」が合い言葉となり、上海にやってくるバックパッカーの多くが浦江飯店を根城にしたものです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204257.jpg 租界時代そのままの廊下。

 その浦江飯店から、ドミトリーが消えました。2005年からだそうです。浦江飯店は、再びその経営路線を変更したのです。改めて内装を施し、ツインルームをメインにした、レトロな三つ星ホテルになりました。

 正面エントランスから中に入ると、正面には大ホール「孔雀廳」に続く階段。右奥にはフロントデスク。すぐ右はコーヒーラウンジ。1986年に泊まったときにはコーヒーラウンジの場所がフロントデスクだったような気がするけれど、定かではありません。フロントデスクとラウンジの間には宿泊棟へ続く階段があり、その階段を上ると、エレベーターと各階へつながる階段と、もう一つの出入り口があります。この出入り口、よく覚えています。ドミトリーに泊まっているともっぱらこの出入り口から出入りしたものです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204247.jpg 部屋番号を示すプレート。

 宿泊棟の廊下は黒光りし、歩けばぎしぎしと音を立てます。部屋のドアも焦げ茶に塗られ、薄暗い照明の下では重々しい雰囲気を醸します。突き当たりの角を曲がって今にもチャップリンが歩いてきそうです。3階の東棟は壁が煉瓦で天井が吹き抜けの展示ホールになっています。壁には浦江飯店の歴史を紹介した写真パネルが飾られ、ホール中央にはガラスケースが置かれて、20世紀初頭にここに泊まった人々が客室で使ったタイプライターや電話機などなど、浦江飯店にゆかりの品々が並んでいます。

 この展示ホール、煉瓦の壁に掛けられて並んだパネルの間にもいくつか扉が見えますが、なんとこの扉も客室なんです。パブリックスペースと見せかけて実は客室が並ぶこのちょっと不思議な展示ホール、なんかちょっと楽しくなってしまいます。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204228.jpg 吹き抜けの3階展示室。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204252.jpg 当時のタイプライターなど。

 浦江飯店の正面玄関から外に出ると、そこは黄浦路。真向かいには、これまたオールドな建築があります。これは1916年建築のロシア総領事館。今もロシア総領事館として使われています。右を向けば向こうにそびえるビルは「上海大廈」というホテル。1934年に英国商人によって建てられたこのビルは当時はブロードウエイ・マンション(中国名「百老匯大廈」)と呼ばれていました。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204319.jpg 浦江飯店全景。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204314.jpg 向うはブロードウエイマンション。

 浦江飯店からすぐの蘇州河に架かるのが外白渡橋、ガーデン・ブリッジです。建築は1907年で、つい先頃100歳を迎えたばかり。のんびりとこの橋を渡ります。この日の上海は快晴で青空が広がり、対岸の浦東地区が朝の日差しを受けて近代的なシルエットになっています。ふと振り返ると、それとは対照的に、租界時代そのままの風景が広がります。この時代的なギャップが残っているのが上海の良さのひとつでしょうか。

 ガーデン・ブリッジを渡って中山東路に入ると、右手には、旧ジャーディン・マセソン商会、旧インド・スエズ銀行、旧横浜正金銀行上海支店、旧サッスーン・ハウスなどなど、19世紀末から20世紀初めにかけて建てられ、世界中の不安と欲望と思惑が渦巻いていた上海租界を象徴する景観が目の前に展開します。左手には黄浦江に面したいわゆる「外灘(バンド)」や黄浦公園があるはずですが、現在は上海万博に向けて大改装工事中で近づくことができません。

 ともあれ、建てられてから100年近く経て、20数年前にバックパッカーの僕を受け入れてくれたなつかしの上海浦江飯店は、建築当時の面影を今もそのままに残して、バンドの片隅にたたずんでいました。僕はガーデン・ブリッジの上で長い間立ち止まり、懐かしさに少し胸をしめつけられながら、じっと浦江飯店を眺め続けました。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204325.jpg ガーデンンブリッジから浦東を見る。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204238.jpg ▲1907年に架かったガーデン・ブリッジ、渡れば浦江飯店、それからブロードウエイマンション。