なつかしの上海浦江飯店(前編)
▲中秋の月が懸かる黄浦江、そして対岸浦東地区の夜景。定番のワンショット。
僕にとって、上海という街はあまりなじみのない場所です。特に、浦東空港が開港し、APECが開かれ、浦東地区に次々と高層ビルが林立するようになって以降、その大都会ぶりに気後れをしてか、どうしても上海へ足が向かず、ほぼ丸10年、上海へは行かずにいました。
それが今回、上海へ行く機会が降って湧いたので、超久しぶりに行ってきました、上海。
上海、しかも観光客が訪れる定番中の定番、「外灘(ワイタン;バンド)」や、バンドから眺める東方明珠タワーや高層ビル群が林立する浦東の風景なんて、なにも今さらこのブログで載せなくてもいいだろうという感じなのですが、ま、とりあえずちょこっとだけ写真を載せてみましょう。
外灘(バンド)の夜景。
そんな定番中の定番を紹介するのはこの記事の趣旨ではありません。僕の上海のいちばんの思い出を書こうと思います。
それは、浦江飯店(ぷーじぁん・ふぁんでぃえん)。
いえ、浦江飯店も、定番中の定番と言えばそうなのです。浦江飯店を取り上げたブログは星の数ほどあるでしょう。しかし、敢えて書きます、僕の浦江飯店の思い出。
浦江飯店は、外灘(バンド)の北側、黄浦江に蘇州河が注ぎ込むあたり、外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)を渡って右に折れたところにあるホテル。創立は1846年、清の道光26年、今の場所に移ってきたのは1856年頃。1910年頃には5階建ての建物が建ちますが、この建物が今も残るレトロなホテルです。
浦江飯店の正面玄関。
そしてこのホテル、どこが定番中の定番なのかと言えば、ドミトリーを多数備え、物置にも廊下にもベッドを並べて、1ベッド1泊いくらという設定で「地球の歩○方」もイチ押しの、バックパッカー御用達のホテルなのであります。値段の安さもさることながら、これまたバックパッカー御用達の「鑑真号」など国際フェリーの発着埠頭にも近く、「降りたらまずプージァンを目指せ」が合い言葉でした。
僕が浦江飯店に泊まったのは1986年2月のこと。以来、一度も訪れたことのなかった浦江飯店に、今回行ってみることができました。
あれから20数年、上海は本当に様変わりしました。浦東地区には高層ビルが林立し、徐家匯地区や虹橋地区の変化は生き馬の目を抜く勢い。バンドも観光客向けに整備を重ねて変わっていますが、それでもバンドと中山東路をはさんだ租界時代の景観は、当時を思い出させてくれます。
浦江飯店は、外白渡橋を渡ってすぐ右に折れたその左側にあります。1910年頃に建てられた浦江飯店の外観は、今も少しも変わっていませんでした。1986年に初めて泊まったときの記憶が一気に蘇ってきて、「そうそう、コレコレ!」と思わず指さしてしまいました。
外観同様、浦江飯店の中も、20世紀初頭の趣がそのまま残っています。ロビーは高い天井に装飾を施された照明が下がり、一歩中に踏み入っただけで租界時代へタイムスリップしたような気になります。黒光りする床は歩くとぎしぎしと音が鳴り、各階へつづく螺旋階段の手すりなどもしっとりとした艶を放っています。焦げ茶色に塗られた客室の扉は、薄暗い明かりを受けて重々しく並んでいます。
租界時代へ迷い込んだよう。
薄暗い中に客室の扉。
僕はここに、1986年の2月、初めて中国を旅行したときに、桂林から飛行機で上海入りして数泊し、それから中国をほうぼう回って最後に大連から船で上海に戻ってまた数泊し、それから就航間もない「鑑真号」という船で大阪へと帰国しました。当時の浦江飯店には普通の部屋もあったと思いますが、おそらく大部分はドミトリーで、僕も最初の数泊は大部屋に、2回目の数泊は倉庫みたいなところに荷物と一緒に押し込められたベッドが割り当てられた記憶があります。
そして今、浦江飯店には、ドミトリーはありません。
▲ライトアップされた浦江飯店。ここだけ時間は20世紀初頭。