毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

はじめての「SL冬の湿原号」⑥(宗谷岬)

イメージ 1▲宗谷丘陵から見下ろす宗谷岬。激しい雪にサハリンは望むべくもない。

 
 2005年1月22日、宗谷岬。この記事、長いです。

 

 ついに来ました、日本最北端、北緯45度31分14秒、宗谷岬。気温は氷点下9℃。海から強風、地吹雪、寒いです。まだ朝8時、他にはもちろん誰もいません。北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフしたものといわれる日本最北端の地の碑の三角錐のデザインは気に入っていますが、そこへ近寄るのも難儀なほどの強い風。海は凍ってはいないけれど、浅瀬に打ち寄せる波は荒々しく尖り、傍らに立つ間宮林蔵の像も、半身が雪で真っ白けになって凍えきっています。ここが最北端なのだと否が応でも思い知ることになります。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025003.jpg 北の果て宗谷岬に横殴りの雪。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025006.jpg 林蔵さん、あんた寒くないのかい?

 

 岬の南側には道路を挟んで宗谷丘陵が広がっています。上へ登るコンクリートの階段は雪に埋もれてただの真っ白い坂になってしまっているけれど、登らないわけにはいきません。
 上へ行けば行くほど海から吹き付ける風が強くなり、横殴りの雪が叩きつけ、風がびゅうというたびに足を踏ん張らなければ、冗談ではなしに吹き飛ばされそうになります。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025011.jpg 宗谷岬灯台。

 

 丘陵の上には宗谷岬灯台があります。初点は明治18年9月25日。灯台の高さは17m、海抜約40mの位置にあり、18万カンデラの白い光は17.5海里(約32㎞)に達するとのこと。宗谷岬から43㎞向こうのサハリンはさすがに照らすべくもないですが、これほどまでに厳しい冬が訪れるこの地に今から120年も前に灯台をつくり、灯を一日も絶やさないよう守り続けた灯台守たちがいたとは到底信じられません。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025015.jpg 旧帝国海軍建造望楼。

 

 丘陵の上からは、おそらくは天気が良ければサハリンまで見渡すことができるのでしょう。しかし、この暴風雪ではそんなことは望むべくもありません。
 北海道の牛乳生産量100万トンを突破と飼育乳牛50万頭突破を記念して昭和46年7月に建てられたあけぼの像や、帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に、国境の備えとして旧帝国海軍が建設した旧海軍望楼を一巡りしたあと、すべり落ちないように気をつけながらほとんどただの坂と化した階段をそろりそろりと丘陵を下り、宗谷岬滞在30分弱で早々に引き上げることになりました。

 

 宗谷岬をあとに、稚内空港へ向かいます。

 

 道路にはまったく雪が積もっておらず、アスファルトの路面は濡れてもいません。横殴りの地吹雪がさらさらの乾いた雪を路面にとどめさせないままどこかへ吹き去ってしまうからです。

 

 稚内空港へ向かう途中の国道238号線、通称「オホーツクライン」からは、荒い波頭を立てる宗谷湾越しに、稚内市街地とその裏手にある開基百年記念塔がはるかに見えました。
 この国道は声問あたりまでかつての国鉄天北線と肩を並べて走っているはず。しかし今となっては天北線の名残をとどめるものは何も見つけることはできませんでした。何度か乗った客車だった頃の急行「天北」、昼行列車なのに夜行の「利尻」と共通運用なので寝台車がそのままついていて堂々とヒルネができたこと、鬼志別で降りて駅からてこてこと歩いて海を見に行ったこと、そんなことを思い出してしまいました。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025020.jpg 開基百年記念塔が見える。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025025.jpg 風びゅうびゅうの稚内空港。

 

 9時ちょっと前に稚内空港に到着。
 天候は不安定で、雪は弱まったものの降ったり止んだり。絶え間なく横風が吹いていて、あの日のいやーな思い出がよみがえります。

 

 1997年4月、当時香港に住んでいた僕は、イースター休暇で北海道へ行き、最後に稚内から羽田、成田と乗り継いで香港へ戻ってくる計画を立てていました。ところがその日の稚内空港上空はどんよりと雲が厚く低く垂れ込め、視界不良。羽田からやってきたジェット機の音はすれども姿は見えず。三度ほど着陸を試みたもののゴーアラウンドを繰り返すばかりでとうとう機影を見せないまま着陸をあきらめ、まさに手に届くところまで来ていながら羽田へ引き返して行ってしまいました。
 さあそれからがたいへんです。大あわてで払い戻しを済ませ、稚内駅へ移動し、急行「サロベツ」に飛び乗り、千歳空港で最終の羽田行きをつかまえ、東京で宿を探しまくって一泊。翌日は朝から出勤になっているところを香港へ電話して午後から出勤にしてもらい、航空各社に電話をかけまくるもイースター休暇のため香港行きはどの便も軒並み満席。ようやくキャセイパシフィックの朝いちの関空発のフライトに空席を見つけ、ノーマルで購入。持っていたJASの格安航空券は乗り過ごした時点でパーになっているので、これは最高にイタイ出費。翌朝いちばんの便で羽田から関空へ飛んで香港行きに乗り継ぎ、なんとか午後2時ぐらいから出勤した、というあの経験がまざまざとよみがえってきました。

 

 今回は翌日出勤という切羽詰まった状況ではないですが、ここが狂うとあとの日程、特に「SL冬の湿原号」に乗る計画がおじゃんになってしまいます。お願いだ、降りてきてくれ、飛行機たちよ!

 

 しかし空港内には「着陸できない場合には新千歳に引き返します……」というアナウンスが人の心を知ってか知らずか繰り返し流されていています。強い横風は今も続いており、しかも降りてくるのはプロペラ機!

 

 ……………………

 

 降りてきてくれました!激しい横風と降雪の中丘珠からのANA4841便ががんばって降りてきてくれました!機材はエアーニッポンネットワークのプロペラ機・ボンバルディアDHC8-Q300、56人乗り。華やぐようなマーキングが純白の大地にひときわ映えます、目に染みます。エライぞ全日空。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190819/20190819025028.jpg しっかり降りてきてくれたDHC8。

 

 この機材が折り返しで新千歳行きANA4924便になります。ANA4924便は所定より30分弱遅れて10時を少し回ったところでエアポーン。プロペラ機の音と振動に身をゆだねて稚内をあとにします。よかった、これでこの先も計画通りに旅を続けられる。ほっと胸をなで下ろしたのでした。