毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

世界遺産「タンロン遺跡」(Long Summer Vacation;その49)

f:id:mainichigaharu:20190825233235j:plain▲かつて皇帝一族が居住していた場内へ通ずるタンロン皇城の「端門(Đoan Môn)」。

 2018年7月22日、まちなか世界遺産。

 フォーとコーヒーでハノイの朝をまったり過ごしたあと、ハンさん一家は、ハノイ市内にある世界遺産を案内してくれました。それは「タンロン遺跡」。あれ、何回かハノイに来てるけど、全然知らなかったぞ。

 ベトナム国内には、現時点で8つの世界遺産があり、そのうちハノイ市内にあるのは1つ。それが「タンロン遺跡」です(登録名称は「ハノイのタンロン皇城の中心区域」。)。西湖の南、ホーチミン廟のすぐ東側、めっちゃ街の中じゃないですか。

 行ってみると、「歴史的価値は高いスポットだと思われるが、知名度がいまひとつなので驚くほど観光客が少ない」という紹介をしていたサイトありましたが、まったくそのとおりで、入場券を買って敷地の中に入っても全然人影がない!
 

f:id:mainichigaharu:20190825233217j:plain▲入場券を買って敷地の中に入るとこの長い直線道路。人影なし。

 タンロン遺跡は、ベトナム語では「Di tích Hoàng Thành Thăng Long」(チュノム漢字混じり文では「遺跡皇城昇龍」)といい、「タンロン(昇龍)」とはハノイの旧称です。1010年に李朝がタンロンに都を置いて以降、1802年に阮朝がフースアン(富春;今のフエ)に都を移すまで、ベトナム諸王朝がずっと都を置いていたことから、時代の異なる様々な遺跡が発掘され、これが世界遺産として認められたということのようです。

 敷地入口を入るといちめんに青々とした芝生の広場が広がり、日陰がないので暑いですが、風が吹き抜けてなかなか気持ちいいです。

 この広大な芝生の広場の向こうに、お城っぽいのが見えています。「端門(Đoan Môn)」です。「端門」めざしてのんびり歩いていきますよ。

f:id:mainichigaharu:20190825233323j:plain▲芝生の広場越しに見えてきた古い建物は「端門」。

 ここで再び登場するのが「高駢(Cao Biền;Gao Pian;こうべん)将軍」。

 かつて南越国だったこのあたりは、南越国が前漢に滅ぼされると、今のハノイには交阯刺史部が置かれ、後漢には交州と改称され、唐代には交州都護府、交州都督府を経て679年には安南都護府となります。863年には南詔によって安南都護府が陥落しますが、高駢将軍が安南に派遣されて対南詔作戦を展開して南詔を撃退し、866年に安南を奪回し、静海軍節度使が置かれます。その初代静海軍節度使が高駢です。静海軍が駐屯したのがハノイの大羅城で、高駢将軍は、大羅城を修築して今のハノイの基礎を打ち立てたと言われています。その高駢将軍が安南滞在中に夫妻で今のヴァンフック村を訪れて絹織物の技術を伝えたということを前の記事で書きました。

 この高駢が築いた大羅城の土台を基礎に、1010年に李朝を興した初代皇帝リー・タイトー(Lý Thái Tổ;李太祖)がタンロン城を築くのです。これがタンロン城の始まりであり、その後歴代王朝によってタンロン城は繰り返し再建されていきます。
 

f:id:mainichigaharu:20190825233225j:plain▲斜めから見る「端門」。両脇に門楼へ上がる階段がついていて、上がれます。

 タンロン城は三重構造になっていて、城壁のいちばん内側は皇帝一族の居住エリア。「端門」はそこへアクセスできる唯一の門であったそうな。

 「端門」は、ベトナム中部タインホア地方丘陵部の小首長だったレ・ロイ(Lê Lợi;黎利)によって1428年に建てられた黎朝の前期に建設され、のちのグェン朝時代に補修された建造物。正面からの写真を見るとわかるように、門には中央に3ヶ所、両側に1ヶ所ずつ、出入り口が計5ヶ所あり、更に両脇に階段があって門楼へ上がることができるようになっています。

 北京の故宮などでもそうであるように、5つの出入口のうち、真ん中は皇帝専用。皇帝しか通ることができません。しかし、5つの出入り口のどこから入っても必ず中央の検問を通らなければならない構造になっています。「端門」のすぐ奥には皇帝のいる「敬天殿(Điện Kính Thiên)」があるので、厳しいセキュリティチェックが必要だったのですね。現在、「端門」と「敬天殿」の間の通路の一部には透明なガラス板が張られ、発掘現場が見えるようになっています。足下に見える敷石は「敬天殿」へ続く通路の一部であったのでしょう。

f:id:mainichigaharu:20190825233252j:plain▲「端門」から入るとガラス張りの部分があり、発掘された敷石などが見られます。

 「端門」からは奥へ向かって「敬天殿」跡、「D67の家と地下室(ベトナム共産党の政治部中央軍事委員会が1967年から2004年4月まで抗米戦争の戦略に関する決定を含む重要な会議を開いていた建物)」、「後楼」、「北門」を見学できるようになっていますが、我々はそちらには進まず、「端門」の脇にある階段から門楼へ上がってみます。

 おー、門楼へ上がると、目の前に緑眩しい芝生の広場が広がって、なんとも気持ちいいですねー。ん?広場の向こうの真正面に、なにやら塔が立っていて、てっぺんで旗が翻っているような。あの塔はなんでしょう?

 

f:id:mainichigaharu:20190825233313j:plain▲「端門」脇の階段を門楼へと上ってみました。

 

f:id:mainichigaharu:20190825233256j:plain▲門楼からの眺め。芝生の広場が気持ちいい。真正面の向こうになにやら塔が見えますが。