毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

餃子が食べたくなったら瀋陽へ(その4)

イメージ 5 ▲上からは瀋陽故宮全体を見渡せるだろう「鳳凰楼」。

 2014年11月15日、清朝のはじまり。

 僕が前回2006年から2009年まで瀋陽にいたときに始まった地下鉄建設工事がようやく終わり、瀋陽で初めての地下鉄1号線と2号線が2010年に開業しました。その後、一度も乗る機会がなかったのですが、今回初乗車。瀋陽駅から1号線に乗り、太原街、南市場、青年大街、懐遠門と進んで5駅目の中街で下車。中街駅は、瀋陽随一の繁華街であるとともに世界遺産・瀋陽故宮の最寄り駅であります。

イメージ 1 ▲瀋陽故宮のカナメ太政殿への入口「東大門」。皇帝しか通れないからして普段は閉まってる。

 むかしむかし、このあたりには女真族がおりまして、やがてその中の「建州女直」と呼ばれる集団の中からヌルハチが出て、13部族を統一して1616年に後金を建てます。最初に首都が置かれたのが、今の撫順市内にあるホトアラ城。ここを訪れたときの記事はコチラにUPしてあります。

 ヌルハチは1619年、明と清の関ヶ原の合戦とも言うべきサルフの戦いで明の大軍を破り、1621年に都を遼陽に移し、更に1625年、都を瀋陽に移します。その皇居となったのがこの瀋陽故宮ってわけですね。

イメージ 2 ▲瀋陽路を東から来ると東大門の前を通って前方に「文徳坊」。

 ヌルハチの息子ホンタイジが1626年に後を継ぎ、1636年には国号を「大清」に改めます。ホンタイジはなんどか北京を攻略しようとしますが、果たせぬまま1643年に瀋陽で没。しかし、翌1644年、明が李自成の乱で自滅すると、第3代順治帝やその摂政ドルゴン、ジルガランらは北京へ進出して1911年の辛亥革命に至るまで中国最後の統一王朝としての地位を固めるわけです。

 ここ瀋陽故宮は、1625年にヌルハチが都を立ててから1644年に北京へ進出するまでの間、後金、大清の都であったわけです。

イメージ 3 ▲「崇政殿」。「金鑾殿」とも。瀋陽故宮の正殿。外国使節の謁見などに使われました。

イメージ 4 ▲「崇政殿」の玉座。ここに座れたのはヌルハチ、ホンタイジ、順治帝の3人だけかな?

 「文徳坊」をくぐると右側に正門であるところの「大清門」があり、その脇の切符売場で入場券を購入し、「大清門」から入場。入るとすぐ正面には「崇政殿」。「金鑾殿」とも呼ばれる瀋陽故宮の正殿で、ホンタイジが国事を議論したり、諸侯、外国使節との引見などに使われたメインビルディングです。

 「崇政殿」の裏に回ると、ひときわ高い建物が。これは「鳳凰楼」。瀋陽故宮の中で最も背の高い建物で、三層からなり、いちばん上の階では皇帝が酒を飲みながら月を愛でたのだとか。

イメージ 5 ▲瀋陽故宮の中でいちばん背が高い「鳳凰楼」。

 「鳳凰楼」をくぐり抜ける出入口の上には「紫気東来」と書かれた扁額がかかっています。これは「高貴な気は東より来たる」という意味で、中国では縁起のよい言葉として扁額などによく書かれます。
 
 「紫気」には、「高貴な気」という意味だけではなく、新しい皇帝と新しい王朝へ天命が下った兆しを表すものでもあり、「紫気東来」は、清朝が中国を支配する正当性を身につけており、瀋陽という東から中国全土を正当に統治していくことを示しているのだそうです。

イメージ 8 ▲「鳳凰楼」は後宮への正門でもあります。くぐり口に「紫気東来」の扁額。

 「鳳凰楼」の最も高い第三層の軒下には「鳳凰樓」と記された額がかかっているのが見えますが、その左隣には、漢字以外の文字が見えます。これは満語の満文ですね。北京の故宮でも同じように漢語と満語が併記されています。

 現在の中国には満族が約1千万人いるとされますが、漢化や蒙化が進んだ満族の中に満語を話せる人はほとんどいません。残念なことです。歴史的経緯から現在新疆北部に居住する少数民族の一つシボ族の人々は現在もシボ語という言葉を話していますが、これは満語の方言の一種で、文字も満文を改良したものを使っています。瀋陽や北京からはるか遠く離れたところで満語が生き続けているというのもおもしろいものです。

イメージ 7 ▲建物の名称を示す扁額には漢文と満文が併記されています。

 「鳳凰楼」を抜けると、その後ろに広がっているのは後宮。皇帝や皇后の居住空間です。

 こまごまとした建物が四方に並んでいますが、「鳳凰楼」を抜けて正面にあるのが「清寧宮」。ホンタイジとその妻孝端文皇后(1599~1649)が暮らしたところ。入口を入って右側が二人の居室で、左側の広いスペースは宗教めいた儀式を行うスペースだったそうです。

 このスペースは壁に沿って北・西・南の三方がオンドルになっていて、満族の典型的な住居様式と言えます。北側の隅には大きい鍋がかかったかまどがあり、これはいけにえの豚を煮るためです。西側の壁には神龕(しんかん)という神棚ようなものと神像(関帝像)がしつらえてあります。満族は西側を上座とするので、西側の壁に祀られているのですね。

イメージ 6 ▲ホンタイジと皇后が生活していた「清寧宮」の西壁には「神龕」が祀られています。