毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

興城古城(ANA機内誌でも特集掲載!;その4)

イメージ 1 ▲興城古城の南門「延輝門」。繁華街からつながっていて観光客がいちばん多く出入りする門。

 2017年6月10日、城壁の上をゆく。

 メインストリート「興海南街」を市場とは反対側に渡って北へ上がっていくと、突き当たるのが「興城古城」の南門にあたる「延輝門」。いやあ、約11年前とほとんど変わっていませんねー。まあこんな歴史遺跡が10年ちょっとでがらりと変わってたりしたら困るんですが。

 11年半前、2006年10月に来た時の記事はコチラです。城壁も城内の様子もほとんど変わっていないことがわかります。

 詳しいことは過去記事の方も読んでいただきたいですが、ここ「興城」は、1428年、明代宣徳年間に建造された城壁に囲まれた「古城」。中国では古来、「まち」は城壁で囲まれていたものであり、北京や西安もそうですが、中国の至る所で、今でも城壁が一部残っていたり、城壁があった痕跡を見ることができます。

イメージ 2 ▲南門から入って南北を貫く石畳の通りの両側はおみやげ屋さんがずらり。

 しかし、その城壁が四方にわたって完全に残されているところ、つまり城壁を一度も下におりることなく一周できるところとなると、もはや今の中国では絶滅危惧種となってしまい、今や世界遺産に指定されている山西省の「平遥古城」と、ここ「興城古城」ぐらいではないかと思われます。

 そんな「興城古城」、11年半前に来たときと比べてもかなり観光地化が進み、南門から入って南北を貫く石畳の通りをゆくと、その両側には明代の建物を模して造られたおみやげ屋さんなどのお店がずらりと軒を並べ、多くの観光客でにぎわっています。

 ではさっそく城壁の上に上がってみましょう。城内に入るのは無料ですが、城壁に上がるためには25元の入場料が必要です。

イメージ 3 ▲城壁の上から見下ろした、南門から続く南北の通り。

イメージ 4 ▲南北の通りの途中には「牌楼」が建っています。「牌楼」の連なり、すてきです。いちばん奥は「鐘楼」。

 城壁の上から、南門からの通りを見渡すと、北側へ向かう途中に鳥居のようなものが二つ建っているのが見えます。これは「牌楼」と呼ばれるもので、「牌坊」とも。中国の伝統的な門型建築で、扉はありません。横浜中華街には10基も「牌楼」があるそうです。

 「興城古城」城内の「牌楼」は、明代最後の皇帝・崇禎帝(第17代;在位1627年~1644年)が、遼西都督を務めていた祖大寿、祖大樂の兄弟の功績を称えて勅を下して建立せしめたもの。南側に建つのが祖大寿のためのもので、俗に「頭道牌楼」と呼び、1631年の建立。北側に建つのは祖大楽のためのもので、「二道牌楼」と呼ばれ、1638年の建立。祖大楽の牌楼の方は保存状態がよく、建立当時のままですが、祖大寿の牌楼の方は倒壊の危険が増したため1969年に取り壊され、1988年に復元されたものだそうです。

イメージ 6 ▲東南角の砲台から東門方向を眺める。右側が城壁の外側(城外)になります。

イメージ 7 ▲城壁の上をずっと一周歩いて回ることができます。奥に見えるのは東門の楼閣。

イメージ 8 ▲城壁の内側(城内)。左の林は「将軍府」「郜家住宅」などの遺跡が残るエリア。

 「興城古城」のまちづくりが始まったのは1428年(宣德3年)のこと。当時は「寧遠衛城」と呼ばれていましたが、清の時代に入って改修を進めるうち「遠州城」と改名されました。南方で李自成の乱が起き、北からは清が攻め寄って来る時代、万里の長城より外(「関外」といいます。)で、最後に残ったのはここ「寧遠城」だけであったといいます。

 山西省「平遥古城」の城壁は周囲6.4kmあり、一辺は1.6kmありますが、こちら「興城古城」は一辺800mで、一周3.2km。これぐらいなら、1時間ぐらいでのんびり一周することができ、お手頃です。

 城壁の高さは8.8m。南門の近くから城壁の上にのぼり、まずは南辺を東へ歩いていきます。城壁の大部分はのちに修復されたものですが、とても立派に復元されていて、みごとです。東西南北に一ヶ所ずつ門があり、四隅には砲台が築かれています。

イメージ 5 ▲城内には「平房」と呼ばれる平屋の民家が建ち並び、一般庶民がたくさん城内で暮らしています。

 城内には「平房」と呼ばれる平屋の民家がたくさん建ち並び、今もたくさんの一般庶民が城内で暮らしています。興城市では、この「興城古城」を完全な観光地にするために、城内で暮らす市民を城外へ移転させようとしているという噂も聞きますが、一般庶民も城内で暮らしている姿がこの場所の魅力なのであって、完全な作り物の観光地にはしてほしくないなあと思います。

 そして南門から約800m歩いて、東門に到達。「春和門」というそうです。はためく旗に「袁」の文字が記してあるのは、「寧遠城」を築城し、ここの駐留して清軍をたびたび撃破した明の武将・袁崇煥のこと。1626年、攻め寄せてきたヌルハチの後金軍との「寧遠城の戦い」ではよく戦ってこれを撃破し、その功績で兵部侍郎・遼東巡撫・主持関外軍事に任じられますが、清が明朝内部に、袁崇煥が謀反を企てているという噂を流し、猜疑心の強い崇禎帝がこれを簡単に信じ、1630年、袁崇煥は謀叛の疑いで処刑されてしまいます。今でも、興城の人々は袁崇煥をよく慕っています。

イメージ 9 ▲東門(春和門)上の楼閣。旗には「袁」の文字。

イメージ 10 ▲東門を行き交う人や車。観光のためだけではなく、城内に暮らす人々の生活道路です。