毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

【社説】香港返還10周年に寄せて

イメージ 1 ▲九龍城界隈の上空すれすれを突っ込んでいく英国航空(BA)のジャンボジェット。

 今日2007年7月1日は香港返還10周年の日です。

 僕は、10年前の1997年7月1日、返還のその日を香港で迎えました。返還前の2年と返還後の1年を香港で暮らし、返還へ向けて香港が待ったなしに「その日」へ向けて走っていく姿と、「その日」が明けて肩を落としたような香港の姿を、この目でずっと見続けました。

 本当は、今日この10周年の日を香港で迎えたかったのですが、かなわなかったので、ここ中国瀋陽から、香港返還10周年に寄せてちょっと書こうと思います。
 
 書こうと言っても、これはある小冊子に2001年8月に寄稿したものの再掲です。香港へ行ったことがある人もそうでない人も、世界一着陸が難しいと言われた「香港啓徳空港」に思いをはせながらお読みいただければうれしいです~。

                 最後の「香港アプローチ」

 1998年7月6日午前1時17分、73年間灯り続けてきた香港啓徳(カイタク)空港の滑走路の、すべての誘導灯が消えました。

 香港啓徳空港と言えば、あの有名な「香港アプローチ」を体験した方も大勢いらっしゃることでしょう。香港到着便が、ビルの屋上でたなびく洗濯物を主翼にあわや引っかけんばかりの超低空で、機体を大きく右に傾けながら次々と進入していく様は、香港を訪れる人々に否が応でも「香港へ来たぞ!」と感じさせずにはおかない、香港流の手荒い歓迎セレモニーでした。

 世界で最も着陸が難しい空港と言われ、雲が低いときにはうまく曲がれず、着陸体勢に入っていながらゴーアラウンド(着陸やりなおし)をしていく航空機。頭上すれすれをかすめていく航空機をものともせずに、麺をすすり粥を食う九龍城(ガウロンセン)界隈の香港人たちのパワー。返還の足音が聞こえ始めた頃から、将来の身の置き場を探して、あるいは新しい夢を抱いて海外へ飛び立った人たちや、また戻ってきた人たちの喜びや哀しみ。それらすべてが啓徳空港とともにあった風景であり、香港の香港たる風景でした。その啓徳空港が、新空港――赤蝋角(チェクラプコク)空港の開港に伴って閉鎖の運命をたどることになったのです。

 誰もが「借りた時間、借りた場所」での150年間を振り返りながら迎えた「英領香港」最後の日(つまり1997年6月30日)、香港では百年に一度の大雨が降りました。それが英国の悔し涙だったのか、中国の嬉し涙だったのかはともかく、やがて1997年7月1日午前0時を期して、香港は中国に返還されました。そして、返還から遅れること1年、1998年7月6日に新空港が開港する運びとなったのです。

 啓徳空港最後のその日、空港周辺には一日中多くの人々が詰めかけて、離発着する航空機を写真に収めたり、思い思いに啓徳空港との別れを惜しんでいました。

 かくいう私も北京から、啓徳空港に着陸するラストフライトに乗りました。霞みがちな夏の香港には珍しく、くっきりと晴れ渡ったその日、上空から見る香港の夜景はまばゆいほど。返還前の1年間と返還後の1年間に思いを馳せながら、ビクトリアハーバーを縁取るように高度を下げ、空港周辺に集まった人々が焚くカメラのフラッシュの放列の中、天の川へ飛び込むような最後の「香港アプローチ」でした。

 全便の離発着が終了した後に行われた消灯セレモニーを、香港のすべてのテレビ局が実況生中継。その時、香港にいたほとんどの人が、テレビ中継を食い入るように見つめていたことでしょう。

 「返還」から1年の間、自分なりに「返還」とは何なのかを考え、「返還」を受け入れようとしてきた香港の人たちにとって、啓徳空港の灯りがすべて消えたその瞬間こそが、本当に「返還」を迎えた瞬間だったのではないでしょうか。

 もう「返還」から4年の月日が経とうとしています。アジアのハブ空港たらんとする赤蝋角新空港では1日460便が離発着し、香港自体も「一国二制度」の下、基本的には自由と繁栄を享受しています。しかしながら、今でもなお、多くの香港人の胸には、啓徳空港のにぎやかさと高層ビルの谷間をすり抜けていくジャンボ機の轟音が響いているように思うのです。

イメージ 2 ▲右にバンクしながら入ってくるユナイテッド航空のジャンボ。

イメージ 3 ▲啓徳空港のエプロン。キャセイパシフィック航空のロッキードL1011が懐かしい。

イメージ 4 ▲在りし日の「東洋の魔窟・九龍城」。

イメージ 5 ▲ジャンボのどてっ腹を見上げながら食べたワンタン麺が恋しい。(このジャンボはたぶんKLMオランダ航空。)

(古い写真しか持ってきてなくて、あまりいいのがありません。三枚目を除いて1990年12月に撮影したもので、三枚目だけ95年か96年だと思われます。)