毎日ヶ原新聞

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機雷敷設潜水艦「EML Lembit」(Long Summer Vacation;その70)

f:id:mainichigaharu:20200209230636j:plain▲エストニア海軍の機雷敷設潜水艦「EML Lembit」の艦橋。ホンモノです。

 

2018年7月28日、カレフ級。

 

 エストニア海洋博物館「Lennusadam」の屋内展示室の展示の目玉は、なんと言っても、エストニア海軍の機雷敷設潜水艦「EML Lembit」。1979年に退役したエストニア海軍所属の全長59.5mの潜水艦が展示場の端から端までを占めるように堂々と展示されています。ばりばりのホンモノです。(「EML」は国別の艦船接頭辞で、エストニアは「Estonian Navy Ship」のエストニア語「Eesti Mereväe Laev」の頭文字をとっています。)

 

 ばりばりホンモノの潜水艦がそのまま展示されているという点では、広島県呉市「海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)」に展示されている潜水艦「あきしお」がありますね。「あきしお」は全長76mなので、「Lembit」より大きいです。「あきしお」は、船体側面に穴が2カ所あけられ、資料館の3階から船体に入り、機械室前側のトイレや居住区のある区画から、前方に位置する発令所を回って外部に出る順路で艦内が見学できるそうです。しかし、僕は呉港のフェリーのりばと呉駅の間を徒歩で移動するときに「あきしお」を遠目に見たことがあるだけなので、こうしてホンモノの潜水艦を間近に見るだけでなく中に入ってみることもできるなんて、かなりワクワクします。「あきしお」と違って、「Lembit」には見学用にあとから穴を開けたりはしてなくて、よりリアルに見学が楽しめそうです。

  f:id:mainichigaharu:20200209230643j:plain▲艦橋前面にはエストニア海軍のエンブレムでしょうか。

 第二次世界大戦時に、エストニア海軍が自国の沿岸防御のために機雷敷設潜水艦2隻を英国の「ヴィッカース・アームストロング(Vickers and Armstrongs Ltd.)」社の「バロー・イン・ファーネス造船所(Barrow-in-Furness)」に建造させました。「カレフ級潜水艦(Kalev-klassi allveelaevad;Kalev-class submarine)」と呼ばれ、1隻は「カレフ(Kalev)」、もう1隻は「レンビット(Lembit)」と名付けられました。どちらも進水は1936年7月7日に進水し、1937年3月に「カレフ」が、同年4月に「レンビット」が就役しています。どちらも「the pride of the Estonian Navy(エストニア海軍の誇り)」であり、エストニアの海洋史にあって建造された潜水艦は後にも先にもこの2艦だけです。

 

  「カレフ」の名は、ちょっと前の記事にも登場しましたが、エストニアの古代神話で、鷲の背に乗ってフィンランド湾を渡り、エストニアの王となった伝説の巨人カレフのことですね。「レンビット」の方は、これも前の記事でちょっと触れた、1219年に北方十字軍に参加したデンマーク王・ヴァルデマー2世がエストニアに上陸するよりも前の13世紀初頭にエストニアに侵攻したリヴォニア帯剣騎士団に、エストニア人の連合軍を組織して対抗した古エストニア・サカラの首長「レンピトゥ(Lembitu)」の名からきています。レンピトゥは、リヴォニア十字軍以前のエストニアの支配者として文献により唯一その生涯が知られている人物だそうです。

  f:id:mainichigaharu:20200209230652j:plain▲艦内の隔壁に設けられた扉。向こうは発令所かな?

  そしてこの「EML Lembit」の艦内には、艦橋前甲板にあるハッチから入っていくことができます。潜水艦の中に入るのなんて初めてだ。ちょっとドキドキ。

 潜水艦に関する僕の基本的な知識は、ほぼかわぐちかいじの漫画「沈黙の艦隊」からのみ得られているわけですが(笑)、海江田四郎艦長率いる海上自衛隊のディーゼル潜水艦「やまなみ」と日本初の原子力潜水艦「シーバット」を思い出しながら、艦内を見てみよう(と言えるほど詳しく知ってるわけでもないが。)。あっ、映画「Uボート」でもだいぶ学んだな、そう言えば(笑)。

 ハッチにかかるハシゴを下りて、艦橋の真下あたりにあるのは発令所かな。発令所は潜水艦の中枢で、操舵・潜航関連の機器などがここに集中しています。いろんなアナログな機器に囲まれて、海図台もあります。この海図台を囲んで、様々な作戦なんかが練られたのでしょうね。アナログな機器と言えば、映画でもよく見かけた「エンジン・テレグラフ(速力通信機;船橋から機関室へエンジンの出力調整・停止の指示を伝えるための装置)」もありますね~。発令所には潜望鏡もありますし、艦橋へ上るハシゴもあります。艦橋最上部のハッチは開いていますが、途中に網がはめられて、艦橋部分までは上がれなくなっているのがちょっと残念。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230656j:plain▲発令所の海図台。アナログな機器たちに囲まれています。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230700j:plain▲左が「エンジン・テレグラフ」。文字は全部ロシア語ですね。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230704j:plain▲艦橋を上るハシゴ。

 

 エストニア海軍の潜水艦として就役する「Lembit」と「Kalev」は、1940年にエストニアがソ連によって占領されると、ソ連軍旗下に入れられ、バルチック艦隊所属艦として任務に就くことになりました。このうち、「Kalev」の方は1941年にバルト海で行方不明となってしまいましたが、「Lembit」は大戦をくぐり抜け、1946年には「U-1」、1949年に「S-85」、1956年に「STZh-24」、同年12月に「UTS-29」と改名を繰り返しながら任務を続け、1979年に除籍となって 1979年8月29日、曳航された「Lembit」は78年ぶりにエストニアに戻ってくることができました。時間をかけたオーバーホールが必要でしたが、2011年に「Lennusadam」での展示のために陸に上がるまで、現役同様に海上に浮かんでいることができる世界最古の潜水艦だったそうです。75年間にわたる長い運用を経ても保存状態は非常によく、1930年代の潜水艦建造技術を興味深く見ることができます。


 さて、艦首方向に進んでいくと、潜水艦の真骨頂、魚雷発射室に突き当たります。「Lembit」は、船首に魚雷発射管4門を備え、533mm魚雷8本を搭載できます。「Lembit」は基本的には機雷敷設艦ですが、1942年にはナチス・ドイツの商船「Finnland」(5,281トン)を、1944年には同じくナチス・ドイツの商船「Hilma Lau」(2,414トン)を魚雷攻撃で撃沈したという記録も残っているようです。

 

 そして、発令所以上に重要とも言える潜水艦の耳「ソナー室」。窓のない潜水艦にとって、すべてはレーダーと「音」が頼り。敵艦の位置、魚雷の飛んでくる方向、海底の地形把握など、わずかの聞き漏らしも生命に関わるカナメ中のカナメの役割を担っていたのがソナーマン(水測員)。まさに潜航した潜水艦にとっての全神経、全感覚であり、ソナー室でヘッドホンを装着し、ほんのわずかの音も聞き漏らすまいとソナー室に籠もっていたのでしょうね。 

 

f:id:mainichigaharu:20200209230647j:plain▲533mm魚雷発射管が4門設置された魚雷発射室。左2門に魚雷が装填されてますね。 

 

f:id:mainichigaharu:20200209230708j:plain▲ソナー室。ソナーマンが全神経を集中して艦外の音に耳をそばだてていたのでしょう。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230712j:plain▲「Lembit」の艦尾。スクリューは2軸です。


 こんな感じで、とても楽しく興味深い博物館でした!

 巨大な展示室から出てくると、ミュージアム・ショップがあり、いろんなグッズがたくさんあって、このショップだけでも楽しいです。

 我々は気づかなかったのですが、「Kohvik MARU」というカフェもあるみたいです。「カフェ・マル」という意味で、「MARU」というのがどういう意味なのかわからないですが、日本では船の名前につく「丸」がエストニアの海洋博物館でも使われているような気がして、なんかつながりがあるのかなと思えて、ちょっとうれしくなりました。

 「Lennusadam」を出て、またぶらぶらと歩いて大通りに出て、来たときと同じように73番のバスに乗って旧市街地の方へ引き返します。バス停でバスを待つのも、吹き抜ける風が涼しくて、とても気持ちがいいです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230726j:plain▲73番のバスのLennusadamバス停。反対方向へ行くバスが走っていきました。

 

Lennusadam 屋内展示室(Long Summer Vacation;その69)

f:id:mainichigaharu:20200209230623j:plain▲ドーム型の屋根がいくつも組み合わされた屋内展示室。左は潜水艦「Lembit」。

 2018年7月28日、水底のような。


 「エストニア海洋博物館」は、エストニアの海洋文化に関する物品を収集・保存・展示し、海洋史を含む海洋文化を学べるようにすることを目指し、「太っちょマルガレータ」の塔を改装して1981年にオープンしました。その後、2012年には、この格納庫が「エストニア海洋博物館」の別館のような形でオープンし、今やエストニア最大の、かつ最も人気のある博物館として多くの来観者でにぎわっています。


 バス通りに面した側の入口から入るとチケット売り場があり、大人は15ユーロ(=約1,800円)なんですが、なんとタリン・カードを持っていると無料。タリン・カード持っててよかったといちばん思える施設の一つです(笑)。
 

f:id:mainichigaharu:20200209230618j:plain▲水上飛行機の格納庫だっただけあって、館内はあまりにも広いです。

 

 順路に従って入っていくと、メインの展示室内に架け渡されたブリッジのようなところに出るので、まずは展示室全体を見下ろしながらの見学になります。

 

 それにしてもこの展示室は、広い。反対側の果てが見えないくらい広いです。しかも、床面は暗めの青い照明が使われているので、海の底にいるような感じがしてきます。これこそLennusadamの海洋博物館たる演出なのでしょう。

 

 ブリッジを進んで行くと、ところどころブリッジと同じ高さに床を張って展示物が接地されていますが、軍事関係の展示物が多いですね。もともとここ一帯がわりとこないだまで軍事施設だったわけですから、それは当然と言えば当然でしょう。

 

 なので、海洋博物館ではありますが、戦車も展示されてます。対空機関砲2門を備えたこの戦車は、ソ連製の「ZSU-57-2 オブイェークト500(Ob'yekt;Объект)」です。第二次世界大戦後の50年代後半に製造された戦車で、口径57mmというのは実用化されている機関砲としては現在に至るまで最大口径で、それに見合った最大級の破壊力と射程を誇りますが、発射速度が低い、砲塔旋回速度が遅い、レーダーを持たないなど欠点が多く、5年ほどで製造が打ち切られたようです。ここで展示されているのも、ソ連軍が置いていったものなんでしょうね。 

 

f:id:mainichigaharu:20200209230628j:plain▲ソ連軍が置いていったと思われる対空戦車「ZSU-57-2 オブイェークト500」。

 

 元・水上飛行場らしい展示の目玉は、エストニア軍にも使われた第一次世界大戦中の英国の水上複座偵察爆撃機「ショート184(Bomber Float Plane "Short Type 184")」の実物大レプリカです。「単発、乗員2名、無線電信器装備、ホワイトヘッド14インチ魚雷を搭載できる水上機魚雷攻撃機」が今すぐほしいという英国海軍省の求めに応じ、英国の航空機メーカー「ショート・ブラザーズ(Short Brothers plc)」が設計・製造を手がけ、その試作機第184番機の仕様が正式採用されたので「ショート184」の名がつきました。「ショート184」は1915年8月12日、水上機母艦「ベン・マイ・クリー(HMS Ben-my-Chree)」から飛び立ち、ダーダネルス海峡の北でトルコの軍艦を空中投下型魚雷で攻撃。これが軍事史上初の艦載機による艦艇攻撃となり、「ショート184」は歴史に名をとどめることとなったのです。本物の「ショート184」の機体は世界中に1機も残っておらず、ここLennusadamに展示されているのが世界で唯一の実物大の模型だそうです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230632j:plain▲世界で唯一の水上複座偵察爆撃機「ショート184」の実物大レプリカ。

 

 展示室全体を見下ろしながらブリッジ沿いの展示を見て歩き、ひととおりブリッジを反対側まで歩いてしまうと、階段で展示室の床面へ下り、さっきまで上から見下ろしていた海の底のようなエリアの見学へと移ります。

 

 フロアには、実物大、というか本物のブイやフロート、海中推進装置などなどが所狭しと展示されていて、多くは標識としての役割を果たすために決められたよく目立つ塗装が施されているので、色とりどりです。本物かレプリカかわかりませんが実物大の黄色い潜水艇などもあり、実際に手で触れたり中に入ったりすることができます。

 

 また、大きなブイや、各種ボートなどは上から吊す形で展示されているので、ブリッジの上からは上側だけが見えていたのが、こうして下のフロアに下りてみると、底側を見上げて見学することもできておもしろいです。 

 

 そして、Lennusadamの展示室内最大の展示物と言えば、展示室のほぼ端から端までのスペースを使って現物がそのまま展示されている潜水艦「EML LEMBIT」です。これは次回の記事でじっくり見学したいと思います。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230723j:plain▲下のフロアにはブイやらなんやらが所狭しと展示されてます。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230719j:plain▲メイン展示室最大の展示物、潜水艦「EML LEMBIT」がまるでホントに航行中みたい。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230715j:plain▲実物大の黄色い潜水艇もそのままに置かれています。

 

路線バスで行く海洋博物館(Long Summer Vacation;その68)

f:id:mainichigaharu:20200209230452j:plain▲エストニアで初めて建造された木造潜水艇の原寸大模型。なんかかわいらしい。

 2018年7月27日、73番のバス。

 

 ランチのあとは、旧市街をしばし離れて、バスでちょっとだけ郊外にお出かけします。

 

 Tööstuse行きの73番のバスに、ヴィル門近くのViruバス停から乗ります。73番のバスはだいたい1時間に3本程度走っていて、海沿いに西の方へ走っていくという感じです。降りるのはViruから4つめのLennusadam。近そうなんだけど、バスはなぜか迂回しているようです。所定の路線が工事か何かで通行止めなのでしょうか、岸壁沿いの裏寂れた道をくねくねと走っていきます。その途中で、なんか巨大な廃墟のようなところを走りました。金網で囲まれた広大な敷地は広場のようでもあり、しかしコンクリートで囲まれた細い水路のようなものが海に突き出しているようなところは、1981年公開の西ドイツ映画「U・ボート」で、ドイツ海軍Uボート潜水艦「U96」が最後に凱旋するフランスのラ・ロシェルのUボート・ブンカー(整備と防空機能を兼ねた係留施設)にそっくりに見え、もしや軍事施設?とも思いました。あとで調べると、ここは「リンナハル(Linnahall)」という施設だそうで、1980年のモスクワ五輪の際のヨット競技が、当時「エストニア・ソビエト社会主義共和国」だったここで行われることになったために整備されたものらしい。その後は音楽ホールやスポーツ施設として使われたようですが、2010年までにすべてが閉鎖され、今に至っているようです。バスが迂回しなければ見ることのなかったスポットが偶然見られて、ちょっとウレシイ。

 

 前置きが長くなりましたが、Lennusadamバス停で下車。広いけれども車通りの少ない大通り「カラランナ通り(Kalaranna)」でバスを降り、そのまま海の方へ歩いて行けば、そこには広大な敷地を持つ「Lennusadam」があるのです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230502j:plain▲広大な「Lennusadam」の最も奥まった先の岸壁には「SUUR TOLL」号が係留中。

 「Lennusadam」とは、英語では「The Seaplane Harbour」といい、「水上飛行場」という意味です。この一帯には、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の指示の下、1912年からロシア帝国が滅ぶ1917年にかけて、「ピョートル大帝海軍要塞(Peeter Suure merekindlus;Peter the Great's Naval Fortress)」が整備されましたが、その一部として、ここには海上飛行場と格納庫が建設されました。格納庫は、その当時、その規模としては世界で初めての鉄筋コンクリートの建築物であったそうです。1930年代には、逆にソ連に対するエストニア・フィンランド防衛協力で活用されました。大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したリンドバーグ(「今すぐKISS ME」が大ヒットした渡瀬マキのいるバンドじゃないよ←古っっ!)も、北太平洋航路調査で日本にも飛んでいったロッキードの水上機シリウス「チンミサトーク号(Tingmissartoq;イヌイットの言葉で「大鳥」の意)」で、1933年9月29日の午後にここに降り立っています。このエリアが生まれ変わって、2010年に、「太っちょマルガレータ」にあるエストニア海洋博物館の別館としてオープンしたのです。

 

 まだバス停を降りてちょっと歩いて入ってきただけなのに、格納庫だった巨大建築物の周囲には、いろいろな遊具を備えた子ども用の遊び場があったり、昔の木造潜水艇が展示されていたり、既にかなり楽しめます。展示されている木造潜水艇は、エストニアで初めて建造された潜水艇の原寸大模型だそうです。クリミア戦争で主力のイギリス・フランス軍がフィンランド湾に至ると、ロシアは海上封鎖に踏み切り、これを受けて、イギリスはタリン沖のナイッサール島付近に艦船を配置してタリンの出入りを封じます。これを突破するため、このとき防御施設拡張のためタリンに派遣されてきていたロシアの要塞技術者オットマール・ゲルン(Герн, Оттомар Борисович)は、人知れずイギリス艦に接近しこれを撃破するよう、潜水艇の建造を命ぜられました。そうして1854年にできあがったのが、この木造潜水艇。長さ5mで、乗組員は4名。残念ながら、艇体の漏水の問題や操舵の難しさなどから、実際に任務に就くことはないままスクラップになってしまったそうですが。
 

 格納庫脇を通り抜けて更に先へ歩いて行くととても広い岸壁に突き当たり、小型船などが陸に揚げられて展示されています。そして正面に見えてくる大きな船は、「Lannusadam」の目玉展示の一つ、蒸気砕氷船「Suur Tõll」です。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230506j:plain▲岸壁の上にも小型船の展示が。左のP401は1976年ソ連製のKGB国境警備船です。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230558j:plain▲海側(ヨットハーバー)から見た砕氷船「Suur Tõll」。

 

 「Suur Tõll」とは、サーレマー島の伝説の巨人テールのことです。伝説の巨人の名を冠したこの砕氷船は、バルト海地域に保存されている20世紀初頭の3隻の蒸気式砕氷船の1つだそうです。

 「Suur Tõll」は、1914年にポーランドのシュチェチンにあったドイツのヴルカン造船所でロシア帝国のために建造され、「Tsar Mikhail Feodorovich(ツァール・ミハイル・フェドロヴィッチ)」と名付けられました。1917年にはボリシェビキによって「Volynets(Волынец)」に改名(ロシア2月革命で反乱に加わった「ボリンスキー連隊(Volinsky Regiment;Волынский лейб-гвардии полк)」にちなむ。)されますが、ロシア革命に乗じてフィンランドが独立すると、この船はフィンランドの手に落ち、1922年まで「Wäinämöinen(ヴァイナモイネン)」という名前がつきました。それまで帝政ロシアの支配下に置かれていたエストニアやフィンランドの独立をソヴィエト・ロシア政権が承認することとなる1920年に結ばれた「タルトゥ条約」に基づいて、この船はエストニアに引き渡され、ついに「Suur Tõll(スール・テール)」という名を得ます。1940年からはエストニアはソ連に占領されるので、この船も1985年まで名前を「Volynets」に戻されてソ連海軍に使われますが、その後スクラップとしてソ連海軍が売りに出したのをエストニア海洋博物館がこれを買い取り、名前を「Suur Tõll」に戻して展示されるに至りました。当時の揺れ動くロシア・北欧情勢がそのまま反映されたような船ですね。建造時の総トン数は2,417トン、排水量3,619トン、全長75.4m、全幅19.2m、6ボイラー、3エンジン、3スクリューを備えています。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230511j:plain▲近づいてみると、船体中央の大きな2本の煙突が蒸気船であることを強調してます。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230552j:plain▲「Suur Tõll」を船首から。全長75.4m、全幅19.2mです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230613j:plain▲船首にズーム。砕氷船ぽくないけど、これで厚い氷に当たっていってだいじょうぶ?

 

 「Suur Tõll」の船首が向いている方、東側の岸壁には、ずらりと大砲が並べてあります。これも「ピョートル大帝海軍要塞」時代に据え付けられていたものでしょうか。

 

 大砲群の前に敷いてあるレールは、接岸した船舶に搭載する物資運搬用のものと思われ、端の方には、車輪のついた台車に黄色く塗られた大きな物体が載せられて展示されていました。魚雷ではないでしょうが、では何でしょうね、ブイでしょうか。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230542j:plain▲「ピョートル大帝海軍要塞」時代の大砲群でしょうか。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230537j:plain▲岸壁の運搬用台車に乗った物体。魚雷?ブイ?ソナー?

 

 岸壁に立って東方向を望むと、午前中に「聖オラフ教会」の尖塔の上から間近に見えていたフェリー埠頭が見え、ヘルシンキなどを結ぶ大型客船の姿もとらえることができます。

 

 右の方へ目を向けると、Lennusadamの敷地から続きの東側の海岸に面して、なにやら古い建物が見えています。石造りのいかつい建物ですが、なんだったのでしょう。

 調べてみると、これは「パタレイ要塞(Patarei merekindlus;Patarei Sea Fortress)」。ロマノフ朝第11代ロシア皇帝ニコライ1世の命により1828年に着工され、1840年までに完成すると、砲台として使われて首都サンクトペテルブルグ防衛の任に当たりました。ロシア革命でロシア帝国が滅びると、それまで兵舎として使われていた建物を使って、1920年からソ連に再び占領される1940年まで、エストニアの国営中央監獄として機能します。エストニアが独立を回復すると、1991年から2002年までは再び刑務所として使われました。

 

 1940年から1991年までの期間は、この建物はエストニア人にとって共産主義とファシズムによる悲劇の象徴として刻まれているようです。1941年から1944年までのドイツによる占領期間を含め、45,000人にのぼるエストニア市民が政治的理由でソ連またはドイツによってとらえられ、そのほとんどがこの施設に収容されました。

 

 現在は、「パタレイ要塞監獄博物館」として開放され、見学できるようになっているそうです。建物そのものもヨーロッパの建築遺産に指定されているそうなので、今度機会があれば訪れてみたいですね。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230523j:plain▲Lennusadamの東側の岸壁からは遠くフェリー埠頭の方まで見渡せます。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230533j:plain▲ヘルシンキを結ぶ大型客船もシルエットになって見えています。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230527j:plain▲東側に隣接している古い建物は「パタレイ要塞」。後に政治犯収容所にもなったとか。

 

 岸壁には、矢印形の案内板が立っています。「Sissepääs Muuseumisse(Museum Entrance)」と書かれた矢印の方向へ向かって、これからいよいよ元格納庫だった博物館の建物の中に入ってみようと思います。

 

 その前に一つ、「Väljumised Naissaarele(Departure to the Island Naissaar)」と書かれた矢印が気になります。ここから「ナイッサール島(Naissaar)」へ行けるらしいです。

 

 「ナイッサール島」とは、本土から約8.5kmのフィンランド湾に浮かぶ南北8km、東西3.5kmの小さな島。Lennusadamの埠頭から1日2往復フェリーが運航されていて、ロシア帝国時代に要塞が築かれたこの島にある灯台やソ連軍の極秘機雷基地、軍用地下通路、ソ連時代に敷設されたナローゲージ鉄道などを参観することができるらしい。なんかちょっと行ってみたくなりますね!

 

f:id:mainichigaharu:20200209230607j:plain▲「ナイッサール島」へ行けるという案内が気になる矢印形案内板。

 f:id:mainichigaharu:20200209230516j:plain▲桟橋から振り返ると、元格納庫だった博物館の建物が。これからここに入ります。

「聖オラフ教会」の尖塔にものぼってみた。(Long Summer Vacation;その67)

f:id:mainichigaharu:20200207002355j:plain▲「聖オラフ教会」の尖塔の上からのタリン旧市街の眺め。すばらしい。

 

 2018年7月27日、太っちょ。

 

 それでは、高さ124mの「聖オラフ教会」の尖塔に登ってみましょう。

 

 登ってみましょうと言っても、登れるのはもちろん白壁のいちばん上の部分まで。銅板(たぶん)で葺かれたとんがり屋根部分に上がることはできません。さっき「聖マリア大聖堂」の塔に登ったときも難儀しましたが、「聖オラフ教会」の塔はそれよりも高いのだから、狭いらせん階段をひたすら登っていくのはかなりの重労働。膝が笑う。わっはっは。

 

 しかし、苦労して登ったかいあって、塔の上からの眺望はスバラシイの一言。快晴のお天気もあいまって、すぐ足下の旧市街から360度地平線水平線までくっきりと見渡せて、気持ちいいことこの上ない。その景色を、以下にどうぞごらんください!

 

f:id:mainichigaharu:20200207002350j:plain▲南方向。真ん中へんにヴィル門に続く城壁と城壁にあるとんがり屋根が見えます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002359j:plain▲南西方向。聖ニコラス教会、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂などが見えてます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002404j:plain▲北東方向。ヘルシンキなどを結ぶフェリー埠頭がすぐ近くなんですね。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002409j:plain▲フェリー埠頭にズーム!いつか船でヘルシンキ・タリンを移動してみたい。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002413j:plain▲東側。見下ろすと、聖オラフ教会にはほかにもいくつか小さい尖塔があります。

 

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▲北側へズーム。「ピック通り」の北端あたりになりますね。

 

 「聖オラフ教会」はタリン旧市街の北部にあるので、塔の上から北方向を眺めると、フェリー埠頭がすぐ間近に見え、大型フェリーが停泊しています。タリンとヘルシンキを結ぶ航路の就航船でしょうか。一度はタリンとヘルシンキをフェリーで移動してみたいものです。

 

 その方向から足下に目を落とすと、タリン旧市街のいちばん北のあたりが見えます。「ピック通り」の北のはずれあたりです。そのいちばん北の奥に、ひときわ大きな、というか図太いというか、旧市街を囲む城壁に沿って立つ数々の円柱にとんがり屋根の細身の塔とは打って変わった、ずんぐりとした背の低い円柱状の建物が見えています。


 これは「太っちょマルガレータ(Paks Margareeta)」。用途としては「砲塔」で、高さ20m、直径24m、壁の厚さは4.4~6.5m、銃眼は150以上という堅固な造り。タリンの海の玄関口を守るために1511年から1529年にかけて建造されたもの。しかし、高さより直径の方が大きいという形状から「太っちょ」と呼ばれるようになったわけではなさそうです。

 
1808年のフィンランド戦争などを経てタリンが海からの攻撃にさらされる恐れがなくなると、この砲塔は役割を失い、倉庫や兵舎、あるいは監獄として利用されるようになりますが、「太っちょマルガレータ」と呼ばれるようになるのはその頃から。監獄時代に受刑者の食事の世話をしていた女の人の名がマルガレータだったからとも、3階部分に据えてあったずんぐりとした形の大砲がそう呼ばれていたからとも、諸説あるようです。 

 

f:id:mainichigaharu:20200207002426j:plain▲「太っちょマルガレータ」とその西側に立つ見張り塔。


 「太っちょマルガレータ」は、今は「エストニア海洋博物館」として開放されていますが、2018年1月31日から改修工事のため閉館になっているということで、今回は中に入ることはできませんでした。

 「太っちょマルガレータ」のある城門から入って「ピック通り」を歩いていくと、再び「聖オラフ教会」の裏手を通り、そのもう少し先の「パガリ(Pagari)通り」との角の「ピック59番地」にあるのが「KGB強制収容所跡(KGB vangikongid;KGB Prison Cells)」です。

 1917年のロシア革命勃発を受ける形で1918年にエストニア独立戦争が始まると、住宅だったこの建物にエストニア共和国臨時政府が入り、独立戦争が終結する1920年までの2年間、ここから戦争が遂行されていました。そして1940年まではエストニアの陸軍省の所在地となり、その後のロシア占領時代をはさみ、1991年8月20日のエストニアの独立回復を前にエストニア警察がこの建物で業務を開始したというめまぐるしい歴史を有しています。

 そしてその隙間、1940年6月にソ連がエストニアを占領して以降、KGBがイデオロギー的反対派をここに投獄し、暴力と拷問と監禁をし続けました。収容所は1950年に閉鎖されましたが、共産主義のテロリズムの象徴として今も記憶されています。この建物の地下が収容施設(牢獄)になっていて、見学することができます。 

 

f:id:mainichigaharu:20200207002422j:plain▲この堅牢な建物の地下に、多くのエストニアの人々が捕らえられていました。

 「KGB強制収容所跡」を出て再び「ピック通り」をラエコヤ広場の方へのんびりと歩いて戻ります。道の両側に立ち並ぶ建物はどれも中世の趣にあふれ、壁の色や、屋根や窓の形がかわいらしい建物ばかり。一軒一軒眺めながら歩くとなかなか先に進みません。

 もうだいぶラエコヤ広場の近くまで来たところにあるクリーム色の壁に大きな建物は、「大ギルド会館(Suurgildi hoone;Great Guild House)」です。1325年頃までに裕福なドイツ商人らによって職業別組合である「大ギルド」が結成されていましたが、その社交の場として1410年に建てられた後期ゴシック様式の建物がこれ。タリンでは旧市庁舎に次いで二番目に大きな中世建築です。19世紀にはタリン証券取引委員会の建物となり、今は「エストニア歴史博物館(Eesti Ajaloomuuseum;Estonian History Museum)」となっています。 

 

f:id:mainichigaharu:20200209230447j:plain▲タリンで二番目に大きな中世の建物「大ギルド会館」。

 

 

 

「聖オレフ教会」へ。(Long Summer Vacation;その66)

f:id:mainichigaharu:20200207002333j:plain▲雲一つない青空を背景にそびえる文字通りの「尖塔」。

 

 2018年7月27日、また塔だ。

 「NUKU人形芸術劇場兼博物館」を出て、北東へのびる「ライ通り(Lai tänav)」をまたのんびりと歩いていきますと、前方に、鋭い先端を天に向けた尖塔が見えてきます。「聖オレフ教会」です。

 「聖オレフ教会」へ向かって歩く「ライ通り」の両側には三角屋根の中世の家屋が建ち並んでいて、通りが石畳なのもあいまって、本当に中世ヨーロッパに迷い込んだかのような気分になってとても楽しいです。

 「聖オレフ教会」にだいぶ近づいたところにある3軒並びの建物は、「三人兄弟(Kolme venda)」と呼ばれています。「ピック通り(Pikk tänav)」の北端あたりには「三人姉妹(Kolm Õde)」と呼ばれる3軒並びの建物があるそうで、それと対になっているようです。ライ通り38番地、40番地、42番地の並びあう3軒が、「三人姉妹」に比べてデザインが男性的で厳格な雰囲気がある建物であることから、「三人兄弟」と呼ばれるようになったようです。真ん中の40番地の建物は15世紀に建てられたとされ、1940年以降は、タリン市とハリュ県の公文書館などとして使われてきたものだそうです。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002630j:plain▲ライ通りを進むと、奥に「聖オラフ教会」の尖塔が見えてきます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002337j:plain▲右からライ通り42番地、40番地、38番地の建物が3軒合わせて「三人兄弟」。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002329j:plain▲「三人兄弟」の長男か、末っ子か、ライ通り42番地の素敵な建物。

 「三人兄弟」の前を通り過ぎて100m足らずで、「聖オラフ教会(Oleviste kirik)」に着きます。


 タリンが1219年にデンマークに占領される前の11世紀の頃、スカンジナビア人コミュニティの中心があったこのあたりに、教会は既に存在していたようです。「オラフ」の名称は、ノルウェー王(在位1015年~1028年)でキリスト教の聖人とされる「オーラヴ2世(Olaf II Haraldsson)」から来ているとのこと。しかし、史料の中に「聖オラフ教会」が登場するのは1267年になってからで、それ以前についての記録は残っていないようです。なので、正確な建造年はわかりませんが、14世紀に入って大規模な改修工事が行われたようです。

 そしてこのまさに「尖塔」と呼ぶにふさわしい「尖った塔」、今でこそ高さ124mですが、かつて159mの高さだったこともあり、正確な記録はなく異論はあるようですが、1549年から1625年までは、世界で最も高い建物だったのだとか。

 この高さが災いして何度も落雷を受け、寄港する船の目印と避雷針としては役だったものの、何度も落雷で火災を起こすことになり、完全に焼け落ちたことがこれまで3回あるので、今ある姿は19世紀以降に再建されたものです。

  

 そしてこの尖塔には登ることができるので、登ってみようではないか。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002342j:plain▲尖塔のほぼ真下から見上げてみた。

f:id:mainichigaharu:20200207002346j:plain▲尖塔の登れるいちばん上まで登って屋根のとんがり部分を見上げてたところ。

 

「デンマーク王の庭園」のあたり。(Long Summer Vacation;その65)

f:id:mainichigaharu:20200207002602j:plain▲「台所を覗く塔」の上の階から、城壁の向こう側が「デンマーク王の庭園」。

 2018年7月27日、「ライ通り」へ。

 「聖マリア大聖堂」の塔の上から地上に下りて、「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」の前を再び通って城壁の方へ戻ってきますと、城壁に門のような口が開いていて内側へ入れる箇所がありました。ここから中へ入ってみますと、そこは「デンマーク王の庭園(Taani kuninga aed)」。


 時は13世紀の1219年、北方十字軍に参加したデンマーク王・ヴァルデマー2世は、当時「エストラント」と呼ばれていたエストニアに上陸し、今は「デンマーク王の庭園」になっているこの場所にデンマーク軍の前線基地を置いて、土着の首長たちと戦火を交えます(1219年6月の「リュンダニの戦い」。)。しかし、首長たちの砦がなかなか落とせない。万策尽きたヴァルデマー2世は、ついに神頼み。すると、「赤地に白十字の旗を掲げよ」とのお告げが!ヴァルデマー2世がそのとおりにして突撃すると、奇跡的に勝利を収め、戦いの流れが変わったのだとか(一説では、空が開き、白い十字架が描かれた赤い旗が天から舞い降り、それが聖なる兆候となって勝利へと導かれた、とも。)。これが「赤地に白のスカンディナヴィア十字を描いた旗」、すなわち「ダンネブロ (Dannebrog) 」と呼ばれるデンマーク国旗の発祥なのだそうです。

  

f:id:mainichigaharu:20200207002606j:plain▲城壁の内側、「デンマーク王の庭園」の一部を見渡してみる。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002614j:plain▲「デンマーク王の庭園」を見下ろす城壁の上から。三角屋根は「処女の塔」。今はカフェに。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002609j:plain▲城壁の上を城壁に沿って歩くことができます。古い石積みが中世を感じさせますね。

 

 「デンマーク王の庭園」のところの城壁には、上にのぼることができる石段があり、城壁の上の通路をたどって、「処女の塔」の中に設けられているカフェの方へも行くことができるようになっています。

 我々はここからは城壁には上がらずに、「台所を覗く塔(キーク・イン・デ・キョク)」まで戻って、こちらに入ってみたいと思います。「台所を覗く塔」は、「キーク・イン・デ・キョク要塞博物館(The Kiek in de Kök Fortifications museum)」になっていて、2階から4階までの常設展示室では、城壁の形や塔の配置がよくわかる昔のタリンのジオラマや、地図や武器など戦史にまつわる資料が展示されています。ジオラマを見ると、こんなにたくさんの塔があるのかとちょっとびっくりしますが、全部の塔をめぐってみたくもなります。そしてもちろん、この「台所を覗く塔」からの旧市街の眺めもすばらしいです。
 

f:id:mainichigaharu:20200207002557j:plain▲「台所を覗く塔」の上の階からの眺め。聖ニコラス教会、ずっと奥に海やフェリーも。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002619j:plain▲常設展示フロアに展示されているタリンの塔の配置ジオラマ。

f:id:mainichigaharu:20200207002623j:plain▲手前が「トームペア城」ですね、きっと。

 要塞博物館の見学を終えて、トームペアの丘の上から下町へとのんびり下り、ヌンネ(Nunne)通り」と「ライ(Lai)通り」の角まで出ると、そこにあるのは「NUKU人形芸術劇場・博物館(NUKU muuseum/NUKU teater)」です。1952年に人形劇専門の専門の劇場「エストニア国立人形劇場」が設立され、その後これを「NUKU基金」が引き継いで、この場所で人形劇場や人形博物館が運営されています。我々が言ったときは劇場の方では何もやっていなかったので、博物館の方だけ見学しました。最初の展示室では、様々な物質が様々な形で展示され、活き活きと描き出すことによってどんな物でも人形たり得ることを学び、次の展示室では、人形劇に使われる人形の種類についての説明や、世界各国の人形劇に使われる人形の展示などがあり、子どもでなくても十分楽しめました。文楽人形など日本からやってきた人形も展示されていましたよ。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002626j:plain▲ヌンネ通りから見た、奥へ続くライ通り。左の淡い黄色の建物が「NUKU人形芸術劇場兼博物館」。

 

 

タリン「聖マリア大聖堂」の塔にのぼる。(Long Summer Vacation;その64)

f:id:mainichigaharu:20200207002526j:plain▲白堊の「聖マリア大聖堂」にも立派な尖塔が。
 

 2018年7月27日、階段きつい。

 

 「トームペア(Toompea)」と呼ばれるタリン旧市街の山の手地区の丘を、「処女の塔」から城壁沿いに上って行けば、左に近づいてくるのが「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」。その向かいには国会議事堂もあり、その間の道「Toom-Kooli通り」を更に上っていくと、トームペアの最高地点に到達します。そこにあるのが、「聖マリア大聖堂」です。エストニア語では「Tallinna Neitsi Maarja Piiskoplik Toomkirik」ですが、地元では単に「大聖堂(Toomkirik)」と呼ばれているそうです。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002522j:plain▲「Toom-Kooli通り」を歩いて行くと「聖マリア大聖堂」の尖塔が見えてきます。

 高さ24mのトームペアの丘は、エストニアの古代神話では、鷲の背に乗ってフィンランド湾を渡り、エストニアの王となった伝説の巨人カレフがその地で娶った美しい娘リンダが、カレフ王の死後、埋葬した場所に巨大な石を集めて作った陵墓としてできたものだそうな。リンダは、陵墓がまもなく完成というところで最後の石を落としてしまい、疲れ果てたリンダは石の上に腰を下ろし涙に暮れたのだとか。

 カレフが眠る神聖な場所・トームペアの丘の上には、1233年には既に教会があったことがわかっているそうです。ここにはエストニア最古の教会があったということです。

 そんな場所にあるのがこの「聖マリア大聖堂」。現存する建物は、14世紀に建てられたものがベースとなっていますが、その後何世紀にもわたって修復や増改築が繰り返され、17世紀後半の大火災で消失した後には100年かけて復元されもしたので、複数の建築様式が混在しています。バロック様式の尖塔が増築されたのは1770年代のことです。

 

 f:id:mainichigaharu:20200207002553j:plain▲こちらが入口のある正面側。

f:id:mainichigaharu:20200207002530j:plain▲「聖マリア大聖堂」の尖塔に登る階段。

 13世紀以来、ここはドイツ系貴族や歴史上の著名な人物の墓所であったので、建物の中に入ってすぐの、天井の高い礼拝堂の壁面には、17世紀から20世紀にかけての複雑な葬儀用の紋章や、13世紀から18世紀にかけての埋め込み石を数多く見ることができます。

 中に入ると、入場料を払わなければならないのですが、礼拝堂の中だけなら2ユーロ、塔にも上るなら5ユーロです。なんと、この高さ69mあるバロック様式の尖塔に上ることができるんですね。

 では、と尖塔に上ることにしてはみたものの、これがなかなかキツイ。石積みの塔の中に延々と続く石の(もちろんセメントで補強されてはいるが)階段をひたすら上っていかなければならないのです。手すりとして太いロープがわたされているけれど、狭くて急な上にぐるぐる回るので、めまいがしてきそう。

f:id:mainichigaharu:20200207002537j:plain▲「聖マリア大聖堂」の塔の上からの眺め。すばらしい~~。フェリーも見えてます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002534j:plain▲少し左にカメラを振ってほぼ真北方向。いい天気やわ~~。

 太ももに乳酸がたまってくるのを歯を食いしばって耐えつつ石段を上りきり、最後は木製のはしご段を数段上がって、ついに尖塔のてっぺん附近の展望フロアに到達!

 四方にあいた窓からは、お~~~~、これはスバラシイ!北方向、北東方向は、眼下すぐから旧市街の古い建物が建ち並び、その向こうにはフィンランド湾の海も見えています。古い建物の赤褐色の屋根、フィンランド湾の青、雲一つない快晴の青空、コントラストがくっきりすぎてまぶしいほどです。北東方向には「聖オラフ教会」の尖塔の向こうに大きなフェリーの姿も見えますが、あれは一度は乗ってみたいヘルシンキとタリンを結ぶフェリーでしょうか。そして南に面した窓からは、「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」のかわいらしいタマネギ屋根がぽこんぽこんと間近に見え、その左奥には、さっき立ち寄った「処女の塔」と「台所を覗く塔」が重なって見えています。そのずっと向こうには新市街の広がりも見えていますね。
 

f:id:mainichigaharu:20200207002541j:plain▲西方向によく見えているのは「聖ニコラス教会(ニグリステ)」の尖塔。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002549j:plain▲南側は隣にある「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」のタマネギ屋根がかわいい。