毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

「聖オラフ教会」の尖塔にものぼってみた。(Long Summer Vacation;その67)

f:id:mainichigaharu:20200207002355j:plain▲「聖オラフ教会」の尖塔の上からのタリン旧市街の眺め。すばらしい。

 

 2018年7月27日、太っちょ。

 

 それでは、高さ124mの「聖オラフ教会」の尖塔に登ってみましょう。

 

 登ってみましょうと言っても、登れるのはもちろん白壁のいちばん上の部分まで。銅板(たぶん)で葺かれたとんがり屋根部分に上がることはできません。さっき「聖マリア大聖堂」の塔に登ったときも難儀しましたが、「聖オラフ教会」の塔はそれよりも高いのだから、狭いらせん階段をひたすら登っていくのはかなりの重労働。膝が笑う。わっはっは。

 

 しかし、苦労して登ったかいあって、塔の上からの眺望はスバラシイの一言。快晴のお天気もあいまって、すぐ足下の旧市街から360度地平線水平線までくっきりと見渡せて、気持ちいいことこの上ない。その景色を、以下にどうぞごらんください!

 

f:id:mainichigaharu:20200207002350j:plain▲南方向。真ん中へんにヴィル門に続く城壁と城壁にあるとんがり屋根が見えます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002359j:plain▲南西方向。聖ニコラス教会、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂などが見えてます。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002404j:plain▲北東方向。ヘルシンキなどを結ぶフェリー埠頭がすぐ近くなんですね。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002409j:plain▲フェリー埠頭にズーム!いつか船でヘルシンキ・タリンを移動してみたい。

 

f:id:mainichigaharu:20200207002413j:plain▲東側。見下ろすと、聖オラフ教会にはほかにもいくつか小さい尖塔があります。

 

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▲北側へズーム。「ピック通り」の北端あたりになりますね。

 

 「聖オラフ教会」はタリン旧市街の北部にあるので、塔の上から北方向を眺めると、フェリー埠頭がすぐ間近に見え、大型フェリーが停泊しています。タリンとヘルシンキを結ぶ航路の就航船でしょうか。一度はタリンとヘルシンキをフェリーで移動してみたいものです。

 

 その方向から足下に目を落とすと、タリン旧市街のいちばん北のあたりが見えます。「ピック通り」の北のはずれあたりです。そのいちばん北の奥に、ひときわ大きな、というか図太いというか、旧市街を囲む城壁に沿って立つ数々の円柱にとんがり屋根の細身の塔とは打って変わった、ずんぐりとした背の低い円柱状の建物が見えています。


 これは「太っちょマルガレータ(Paks Margareeta)」。用途としては「砲塔」で、高さ20m、直径24m、壁の厚さは4.4~6.5m、銃眼は150以上という堅固な造り。タリンの海の玄関口を守るために1511年から1529年にかけて建造されたもの。しかし、高さより直径の方が大きいという形状から「太っちょ」と呼ばれるようになったわけではなさそうです。

 
1808年のフィンランド戦争などを経てタリンが海からの攻撃にさらされる恐れがなくなると、この砲塔は役割を失い、倉庫や兵舎、あるいは監獄として利用されるようになりますが、「太っちょマルガレータ」と呼ばれるようになるのはその頃から。監獄時代に受刑者の食事の世話をしていた女の人の名がマルガレータだったからとも、3階部分に据えてあったずんぐりとした形の大砲がそう呼ばれていたからとも、諸説あるようです。 

 

f:id:mainichigaharu:20200207002426j:plain▲「太っちょマルガレータ」とその西側に立つ見張り塔。


 「太っちょマルガレータ」は、今は「エストニア海洋博物館」として開放されていますが、2018年1月31日から改修工事のため閉館になっているということで、今回は中に入ることはできませんでした。

 「太っちょマルガレータ」のある城門から入って「ピック通り」を歩いていくと、再び「聖オラフ教会」の裏手を通り、そのもう少し先の「パガリ(Pagari)通り」との角の「ピック59番地」にあるのが「KGB強制収容所跡(KGB vangikongid;KGB Prison Cells)」です。

 1917年のロシア革命勃発を受ける形で1918年にエストニア独立戦争が始まると、住宅だったこの建物にエストニア共和国臨時政府が入り、独立戦争が終結する1920年までの2年間、ここから戦争が遂行されていました。そして1940年まではエストニアの陸軍省の所在地となり、その後のロシア占領時代をはさみ、1991年8月20日のエストニアの独立回復を前にエストニア警察がこの建物で業務を開始したというめまぐるしい歴史を有しています。

 そしてその隙間、1940年6月にソ連がエストニアを占領して以降、KGBがイデオロギー的反対派をここに投獄し、暴力と拷問と監禁をし続けました。収容所は1950年に閉鎖されましたが、共産主義のテロリズムの象徴として今も記憶されています。この建物の地下が収容施設(牢獄)になっていて、見学することができます。 

 

f:id:mainichigaharu:20200207002422j:plain▲この堅牢な建物の地下に、多くのエストニアの人々が捕らえられていました。

 「KGB強制収容所跡」を出て再び「ピック通り」をラエコヤ広場の方へのんびりと歩いて戻ります。道の両側に立ち並ぶ建物はどれも中世の趣にあふれ、壁の色や、屋根や窓の形がかわいらしい建物ばかり。一軒一軒眺めながら歩くとなかなか先に進みません。

 もうだいぶラエコヤ広場の近くまで来たところにあるクリーム色の壁に大きな建物は、「大ギルド会館(Suurgildi hoone;Great Guild House)」です。1325年頃までに裕福なドイツ商人らによって職業別組合である「大ギルド」が結成されていましたが、その社交の場として1410年に建てられた後期ゴシック様式の建物がこれ。タリンでは旧市庁舎に次いで二番目に大きな中世建築です。19世紀にはタリン証券取引委員会の建物となり、今は「エストニア歴史博物館(Eesti Ajaloomuuseum;Estonian History Museum)」となっています。 

 

f:id:mainichigaharu:20200209230447j:plain▲タリンで二番目に大きな中世の建物「大ギルド会館」。