毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

路線バスで行く海洋博物館(Long Summer Vacation;その68)

f:id:mainichigaharu:20200209230452j:plain▲エストニアで初めて建造された木造潜水艇の原寸大模型。なんかかわいらしい。

 2018年7月27日、73番のバス。

 

 ランチのあとは、旧市街をしばし離れて、バスでちょっとだけ郊外にお出かけします。

 

 Tööstuse行きの73番のバスに、ヴィル門近くのViruバス停から乗ります。73番のバスはだいたい1時間に3本程度走っていて、海沿いに西の方へ走っていくという感じです。降りるのはViruから4つめのLennusadam。近そうなんだけど、バスはなぜか迂回しているようです。所定の路線が工事か何かで通行止めなのでしょうか、岸壁沿いの裏寂れた道をくねくねと走っていきます。その途中で、なんか巨大な廃墟のようなところを走りました。金網で囲まれた広大な敷地は広場のようでもあり、しかしコンクリートで囲まれた細い水路のようなものが海に突き出しているようなところは、1981年公開の西ドイツ映画「U・ボート」で、ドイツ海軍Uボート潜水艦「U96」が最後に凱旋するフランスのラ・ロシェルのUボート・ブンカー(整備と防空機能を兼ねた係留施設)にそっくりに見え、もしや軍事施設?とも思いました。あとで調べると、ここは「リンナハル(Linnahall)」という施設だそうで、1980年のモスクワ五輪の際のヨット競技が、当時「エストニア・ソビエト社会主義共和国」だったここで行われることになったために整備されたものらしい。その後は音楽ホールやスポーツ施設として使われたようですが、2010年までにすべてが閉鎖され、今に至っているようです。バスが迂回しなければ見ることのなかったスポットが偶然見られて、ちょっとウレシイ。

 

 前置きが長くなりましたが、Lennusadamバス停で下車。広いけれども車通りの少ない大通り「カラランナ通り(Kalaranna)」でバスを降り、そのまま海の方へ歩いて行けば、そこには広大な敷地を持つ「Lennusadam」があるのです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230502j:plain▲広大な「Lennusadam」の最も奥まった先の岸壁には「SUUR TOLL」号が係留中。

 「Lennusadam」とは、英語では「The Seaplane Harbour」といい、「水上飛行場」という意味です。この一帯には、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の指示の下、1912年からロシア帝国が滅ぶ1917年にかけて、「ピョートル大帝海軍要塞(Peeter Suure merekindlus;Peter the Great's Naval Fortress)」が整備されましたが、その一部として、ここには海上飛行場と格納庫が建設されました。格納庫は、その当時、その規模としては世界で初めての鉄筋コンクリートの建築物であったそうです。1930年代には、逆にソ連に対するエストニア・フィンランド防衛協力で活用されました。大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したリンドバーグ(「今すぐKISS ME」が大ヒットした渡瀬マキのいるバンドじゃないよ←古っっ!)も、北太平洋航路調査で日本にも飛んでいったロッキードの水上機シリウス「チンミサトーク号(Tingmissartoq;イヌイットの言葉で「大鳥」の意)」で、1933年9月29日の午後にここに降り立っています。このエリアが生まれ変わって、2010年に、「太っちょマルガレータ」にあるエストニア海洋博物館の別館としてオープンしたのです。

 

 まだバス停を降りてちょっと歩いて入ってきただけなのに、格納庫だった巨大建築物の周囲には、いろいろな遊具を備えた子ども用の遊び場があったり、昔の木造潜水艇が展示されていたり、既にかなり楽しめます。展示されている木造潜水艇は、エストニアで初めて建造された潜水艇の原寸大模型だそうです。クリミア戦争で主力のイギリス・フランス軍がフィンランド湾に至ると、ロシアは海上封鎖に踏み切り、これを受けて、イギリスはタリン沖のナイッサール島付近に艦船を配置してタリンの出入りを封じます。これを突破するため、このとき防御施設拡張のためタリンに派遣されてきていたロシアの要塞技術者オットマール・ゲルン(Герн, Оттомар Борисович)は、人知れずイギリス艦に接近しこれを撃破するよう、潜水艇の建造を命ぜられました。そうして1854年にできあがったのが、この木造潜水艇。長さ5mで、乗組員は4名。残念ながら、艇体の漏水の問題や操舵の難しさなどから、実際に任務に就くことはないままスクラップになってしまったそうですが。
 

 格納庫脇を通り抜けて更に先へ歩いて行くととても広い岸壁に突き当たり、小型船などが陸に揚げられて展示されています。そして正面に見えてくる大きな船は、「Lannusadam」の目玉展示の一つ、蒸気砕氷船「Suur Tõll」です。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230506j:plain▲岸壁の上にも小型船の展示が。左のP401は1976年ソ連製のKGB国境警備船です。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230558j:plain▲海側(ヨットハーバー)から見た砕氷船「Suur Tõll」。

 

 「Suur Tõll」とは、サーレマー島の伝説の巨人テールのことです。伝説の巨人の名を冠したこの砕氷船は、バルト海地域に保存されている20世紀初頭の3隻の蒸気式砕氷船の1つだそうです。

 「Suur Tõll」は、1914年にポーランドのシュチェチンにあったドイツのヴルカン造船所でロシア帝国のために建造され、「Tsar Mikhail Feodorovich(ツァール・ミハイル・フェドロヴィッチ)」と名付けられました。1917年にはボリシェビキによって「Volynets(Волынец)」に改名(ロシア2月革命で反乱に加わった「ボリンスキー連隊(Volinsky Regiment;Волынский лейб-гвардии полк)」にちなむ。)されますが、ロシア革命に乗じてフィンランドが独立すると、この船はフィンランドの手に落ち、1922年まで「Wäinämöinen(ヴァイナモイネン)」という名前がつきました。それまで帝政ロシアの支配下に置かれていたエストニアやフィンランドの独立をソヴィエト・ロシア政権が承認することとなる1920年に結ばれた「タルトゥ条約」に基づいて、この船はエストニアに引き渡され、ついに「Suur Tõll(スール・テール)」という名を得ます。1940年からはエストニアはソ連に占領されるので、この船も1985年まで名前を「Volynets」に戻されてソ連海軍に使われますが、その後スクラップとしてソ連海軍が売りに出したのをエストニア海洋博物館がこれを買い取り、名前を「Suur Tõll」に戻して展示されるに至りました。当時の揺れ動くロシア・北欧情勢がそのまま反映されたような船ですね。建造時の総トン数は2,417トン、排水量3,619トン、全長75.4m、全幅19.2m、6ボイラー、3エンジン、3スクリューを備えています。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230511j:plain▲近づいてみると、船体中央の大きな2本の煙突が蒸気船であることを強調してます。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230552j:plain▲「Suur Tõll」を船首から。全長75.4m、全幅19.2mです。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230613j:plain▲船首にズーム。砕氷船ぽくないけど、これで厚い氷に当たっていってだいじょうぶ?

 

 「Suur Tõll」の船首が向いている方、東側の岸壁には、ずらりと大砲が並べてあります。これも「ピョートル大帝海軍要塞」時代に据え付けられていたものでしょうか。

 

 大砲群の前に敷いてあるレールは、接岸した船舶に搭載する物資運搬用のものと思われ、端の方には、車輪のついた台車に黄色く塗られた大きな物体が載せられて展示されていました。魚雷ではないでしょうが、では何でしょうね、ブイでしょうか。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230542j:plain▲「ピョートル大帝海軍要塞」時代の大砲群でしょうか。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230537j:plain▲岸壁の運搬用台車に乗った物体。魚雷?ブイ?ソナー?

 

 岸壁に立って東方向を望むと、午前中に「聖オラフ教会」の尖塔の上から間近に見えていたフェリー埠頭が見え、ヘルシンキなどを結ぶ大型客船の姿もとらえることができます。

 

 右の方へ目を向けると、Lennusadamの敷地から続きの東側の海岸に面して、なにやら古い建物が見えています。石造りのいかつい建物ですが、なんだったのでしょう。

 調べてみると、これは「パタレイ要塞(Patarei merekindlus;Patarei Sea Fortress)」。ロマノフ朝第11代ロシア皇帝ニコライ1世の命により1828年に着工され、1840年までに完成すると、砲台として使われて首都サンクトペテルブルグ防衛の任に当たりました。ロシア革命でロシア帝国が滅びると、それまで兵舎として使われていた建物を使って、1920年からソ連に再び占領される1940年まで、エストニアの国営中央監獄として機能します。エストニアが独立を回復すると、1991年から2002年までは再び刑務所として使われました。

 

 1940年から1991年までの期間は、この建物はエストニア人にとって共産主義とファシズムによる悲劇の象徴として刻まれているようです。1941年から1944年までのドイツによる占領期間を含め、45,000人にのぼるエストニア市民が政治的理由でソ連またはドイツによってとらえられ、そのほとんどがこの施設に収容されました。

 

 現在は、「パタレイ要塞監獄博物館」として開放され、見学できるようになっているそうです。建物そのものもヨーロッパの建築遺産に指定されているそうなので、今度機会があれば訪れてみたいですね。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230523j:plain▲Lennusadamの東側の岸壁からは遠くフェリー埠頭の方まで見渡せます。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230533j:plain▲ヘルシンキを結ぶ大型客船もシルエットになって見えています。

 

f:id:mainichigaharu:20200209230527j:plain▲東側に隣接している古い建物は「パタレイ要塞」。後に政治犯収容所にもなったとか。

 

 岸壁には、矢印形の案内板が立っています。「Sissepääs Muuseumisse(Museum Entrance)」と書かれた矢印の方向へ向かって、これからいよいよ元格納庫だった博物館の建物の中に入ってみようと思います。

 

 その前に一つ、「Väljumised Naissaarele(Departure to the Island Naissaar)」と書かれた矢印が気になります。ここから「ナイッサール島(Naissaar)」へ行けるらしいです。

 

 「ナイッサール島」とは、本土から約8.5kmのフィンランド湾に浮かぶ南北8km、東西3.5kmの小さな島。Lennusadamの埠頭から1日2往復フェリーが運航されていて、ロシア帝国時代に要塞が築かれたこの島にある灯台やソ連軍の極秘機雷基地、軍用地下通路、ソ連時代に敷設されたナローゲージ鉄道などを参観することができるらしい。なんかちょっと行ってみたくなりますね!

 

f:id:mainichigaharu:20200209230607j:plain▲「ナイッサール島」へ行けるという案内が気になる矢印形案内板。

 f:id:mainichigaharu:20200209230516j:plain▲桟橋から振り返ると、元格納庫だった博物館の建物が。これからここに入ります。