毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

白馬牽く馬車鉄道(2017年月イチ日本・夏休み編;その10)

イメージ 2 ▲満員の乗客を乗せて「旧ソーケシュオマベツ駅逓所前」から来た馬車鉄道が横切っていきます。

 2017年8月13日、回送。

 旧「私立北海中学校」を出て、馬車鉄道通りと並行する通りを更に歩くと、馬車鉄道通りへ抜ける道へ突き当たり、そこを左折して馬車鉄道通りへ戻ります。そこへちょうど馬車鉄道が通りかかり、深緑の森を背景に、白馬の牽く客車がゆっくりと通り過ぎていくのが見えました。うーん、これはなかなかステキな風景。と思っていると、今度は逆方向からもやってきて、またゆっくりと通り過ぎていきました。「農村群」の方から来た客車は立ち客もいる満員状態でした。

イメージ 1 ▲始発の旧「浦河支庁庁舎」前(旧「来松旅館」前)から来た車両は無人でした。

 旧「私立北海中学校」の方から馬車鉄道通りに出たその角に建っているのは、旧「札幌警察署南一条巡査所」。

 この派出所、ぱっと見てすごく印象的なのは、妙に中国チックな屋根とみごとに積まれた赤黒いレンガ。なんとも重厚で、派出所というよりは監獄っぽい雰囲気だなあ。

 1885年(明治18年)、今の札幌市中央区、創成橋の脇に初めて交番が登場。「札幌創成橋交番所」と呼ばれ、木造でした。それがやがて、篤志家の寄付によって、1911年(明治44年)に今のレンガ積みのものに建て替えられました。そしてなんと、1972年(昭和47年)の札幌冬季オリンピックに向けて道路拡張工事が始まった1971年まで現役だったそうで、「赤レンガ交番」と呼ばれて札幌市民に親しまれていたそうです。1971年に役目を終えた「赤レンガ交番」が、今こうして「開拓の村」で余生を送っているのですね。

イメージ 3 ▲長年「赤レンガ交番」と呼ばれて親しまれていた明治44年築の「札幌警察署南一条巡査所」。

イメージ 4 ▲「市街地群」にまっすぐ続く並木道。気持ちいい。

 再び馬車鉄道通りを歩いていきます。ずっと先の方では、さっき通り過ぎて行くのを見かけた馬車鉄道が終点の旧「浦河支庁庁舎」前に着いて、乗客を降ろしているのが見えます。このまっすぐの道、両側に茂って連なる背の高いみごとな街路樹、北海道らしくて、本当に気持ちの良い風景です。

 乗客を降ろした馬車鉄道は、馬を付け替えて、またこちらにゆっくりと向かってきます。客車の屋根の前方には「旧浦河支庁庁舎前行」のフダを掛けたままですが、乗客は乗っておらず、前を通り過ぎるときに、客車の側面の窓に「回送 Out of Service」と書かれた大きなフダが吊してあるのが見えました。なるほど、その日の営業が終了すると、お馬さんの燃料補給基地のある方へ回送して休ませるんですね。

イメージ 5 ▲旧「浦川支庁庁舎」前で乗客を降ろしているところがずっと先の方に見えました。

イメージ 7 ▲そしてまた、馬車鉄道がこちらの方へ近づいてきました。いい風景です。

イメージ 8 ▲車内は無人。窓には「回送」のフダが吊してありました。この日の営業、終了ですね。

 旧「札幌警察署南一条巡査所」のある馬車鉄道通りの十字路の四つ角にはほかに旧「広瀬写真館」、旧「近藤医院」、旧「開拓使工業局庁舎」といったところ。

 「広瀬写真館」、確かさだまさしがそんな歌を歌っていたなと思ったら、それは「廣重寫眞館」だった。「廣重寫眞館が今日で終わるって そんな風な貼り紙がしてあったって~♪」。デジタル全盛期の今、写真館ってなんだかすごく特別な場所になっちゃったような気がするな。

 白壁が美しい旧「開拓使工業局庁舎」は、1877年(明治10年)の建築。開拓使工業局そのものは、明治初期の北海道開拓を支える部門として、1873年(明治6年)に設置され、その事務所としてこの建物が大通東2丁目に建てられました。通りぬけの玄関ホール兼階段室をもつ平面構成や、屋根の棟飾り、ポーチの破風飾り、軒下の持送りなどは、アメリカの建築書を参照していたことが確認されているそうです。その後は、様々な団体の事務所として使用されたのを経て、1969年(昭和44年)に解体。保存されていた柱などの建築部材を使って、1979年(昭和54年)に「開拓の村」に復原されました。明治初期の洋風事務所建築としての歴史的価値が評価され、2013年に国の重要文化財の指定を受けています。

イメージ 6 ▲旧「開拓使工業局庁舎」。白壁に窓枠などの深緑がはいっているのが美しい。