毎日ヶ原新聞

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深すぎる!開拓の歴史のさまざま(2017年月イチ日本・夏休み編;その11)

イメージ 8 ▲1869年(明治2年)の開拓使設置に伴い、4年後の1873年に竣工した「開拓使札幌本庁舎」を再現した建物。

 2017年8月13日、そば屋から新聞社まで。

 旧「開拓使工業局庁舎」の向かいにあるのは、旧「近藤医院」。これはまた板張りの壁、板葺きの屋根が古色蒼然とした雰囲気を醸し出してますね~。

 「近藤医院」を開業したのは、近藤清吉というお医者さん。清吉医師は当時、函館病院に勤めていましたが、1900年(明治33年)のある日、清吉医師が当直の日に病院内で火災が発生し、その責任をとって辞職することに。その時、積丹半島東岸の古平郡古平町で漁場を経営していた種田徳彦という患者に勧められ、当時は函館から積丹半島まで行くのだけでもたいへんだったのではないかと思うのですが、古平町の古平病院に内科医長として赴任しました。

 近藤医師は、1902年(明治35年)に古平病院を退き、同町大字丸山町で個人病院を開業し、その後同町新開町には分院も開きます。しかし、1919年(大正8年)の古平大火で焼失してしまったため、質屋の屋敷を借りて開いていた分院の裏にあった質倉が焼け残ったことから、その質倉で医業をすぐに再開するかたわら、洋風建築が多く立ち並ぶ小樽の見聞経験がある近藤医師が、豊富な文献をもとに自ら設計を手がけて本院を建てました。この本院の建物が、1958年(昭和33年)まで使われ、後に「開拓の村」へ移築されることになります。

イメージ 1 ▲1919年着工の旧「近藤医院」。バルコニー付き玄関ポーチは、当時、小樽地区で流行していたとか。

イメージ 2 ▲診察室。「人体内臓一覧図」と並んで洋画が掛けられているのは近藤医師の趣味なのでしょう。

 旧「近藤医院」の隣は、旧「武井商店酒造部」。もとあった場所は、古宇郡泊村大字茅沼村、積丹半島の西岸で、今の泊原発の少し北側あたりでしょうか。

 泊村では、明治時代にニシン漁が最盛期を迎えると、ニシン漁で莫大な富がもたらされ、50を超えるニシン番屋が建ち並んだそうな。なかでも武井家と川村家はともに江戸末期から明治、大正期にかけて一大事業を成した代表的な網元でした。武井家は代々忠兵衛を名乗り、初代忠兵衛は青森県東津軽郡の生まれ。1838年(天保9年)に北海道岩内港に渡り、やがて茅沼村に居を定めて漁業や炭焼きなどを営みますが、のちにニシン建網を20ヶ所以上持つようになり、明治40年代には樺太にニシン漁場を15ヶ所も持つようになったそうです。

 1856年(安政3年)、茅沼炭山が発見され、やがて採炭業が発展しはじめると、海ではニシンがとれ、山では石炭がとれ、村は大いににぎわっていきます。茅沼炭鉱は、1884年(明治17年)に民間に払い下げられますが、発展は続き、最盛期には1,900人もの炭鉱関係者が入ってきて、炭鉱町としても栄えます。そこへ目をつけたのが、武井龍吉(二代目忠兵衛)の姉婿・松兵衛。1886年(明治19年)に茅沼に建てた店舗兼住宅で、1895年(明治28年)頃から始めた酒造業が大ヒット。酒造米を越後から取り寄せ、銘柄「松の露」や「玉の川」を醸造して、炭鉱街と漁村を抱えて酒類はどんどん売れ、商売は大いに繁盛したそうです。酒造は、戦雲急を告げる1944年(昭和19年)に酒造中止命令が出されるまで続き、その後は雑貨や呉服も扱うようになったといいます。「開拓の村」へ移築されたのは、この建物なんですね。

 ちなみに、泊村の「鰊御殿とまり」には、「旧川村家番屋」とともに、1916年(大正5年)頃に建設された「旧武井邸客殿」が移築、復原されて残っているそうです。この「客殿」を建てたのは武井忠吉なる人物だそうですが、これは武井龍吉(二代目忠兵衛)の兄弟でしょうか。

イメージ 3 ▲旧「武井商店酒造部」。右の平屋の方が酒造場だったそうです。

 旧「武井商店酒造部」の隣は、旧「三〼河本そば屋」。こんなそば屋でそばを食べてみたかった!

 河本徳松、当時18歳。1885年(明治18年)に石川県から小樽へ渡ったというのだから、石川県生まれの青年であろう。身寄りがないまま単身乗り込んだのでは、路頭に迷うのも無理のないこと。そこで徳松青年は、当時小樽にあったそば屋に勤め、修行にいそしみます。

 このそば屋がどこだったのか、どうも2説見られるようです。一つは「ヤマキ屋」、もう一つは[「入船町『ヤマ中』そば店を振り出しに」修行したと記述しているものも見られます。

 『小林多喜二全集』の編集にも携わった作家・手塚英孝の「小林多喜二」には、「その年(大正13年)の十月ころ、多喜二は(引用者注:その後多喜二の恋人になる)田口タキとはじめて遭 った。田口は入船町のやまき屋という小料理屋の美人で評判の酌婦だった。」とあり、「ヤマキ屋」は、小樽で「そば屋」と呼ばれていた小料理屋ふうの「銘酒屋(飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店)」だったようです。
 一方の「ヤマ中」は、早くて1877年(明治10年)前後から1887年(明治20年)にかけて、道内最古の料亭「魁陽亭(海陽亭)」に近く入船寄りの場所に開店したとされるそば屋で、初代・伊藤文平が1874年(明治7年)に「かつぎ屋台の夜鳴き蕎麦」を始めてから裸一貫で独立店舗として開店したことから、こちらは「銘酒屋」ではなく、純粋な「蕎麦屋」であったと思われます。

 河本少年がどちらに修行に入ったにせよ、その後、小間物屋、鰊漁場等を転々とし、やがて上坂右衛門が開いた「三〼(みます)上坂」という別のそば屋に移ります。既に21歳になっていた河本青年は、ここで意外な商才を発揮し、その秀い出た経営能力によって、二代目上坂小吉の放蕩で傾きかけていた「三〼上坂」の再建に成功。河本青年はやがて経営全般を一任され、1897年(明治30年)には、既に若松町(現住吉)に移転していた店舗を買収し、ついに店主となるに至ります。ちなみに、このとき、前の主人がそば屋とともに経営していた銭湯も一緒についてきたらしく、それが今も信香町で絶賛営業中の「小町湯温泉」。そば屋の方は、1909年(明治42年)頃に店舗を新築し、店名も「三〼河本」に改称し、別名「三〼東楼」とも呼ばれていました。この建物がそのまま1986年(昭和61年)頃まで使われてそば屋が営まれていましたが、「開拓の村」へ寄贈されることになり、のれんが下ろされました。なお、入舟町と商大通りの「三〼支店」は今も変わらず営業しているそうです。

イメージ 5 ▲「三〼」「東楼」の文字が残り、真ん中に立派なレンガ煙突。そば茹でのかまどの燃料は石炭だったとか。

 旧「三〼河本そば屋」の向かいは、旧「小樽新聞社」。

 小樽新聞社は1894年(明治27年)創立で、社屋所在地は当時の小樽区港29番地(現・小樽市堺町7-30)。今は観光メインストリートになっていて、ルタオと北一硝子、北一ホールの間にある「千円均一のお店・夢蔵人」の前に「ぶんや通り」という案内板があり、「昔ここが小樽新聞社だったころ新聞記者達が通ったはず」と書かれているらしいです。

 当時、「小樽新聞」は「函館毎日新聞」、「北海タイムス」とともに部数を競い合って「北海道三大紙」と言われ、大正末期に「函館毎日新聞」が脱落すると、二強時代が到来。しかし、風雲急を告げる1942年(昭和17年)の国家総動員法・新聞事業令により、道内の主要新聞11紙が廃刊・統合され「北海道新聞」に一本化される中で「小樽新聞」は廃刊となりました。

 「開拓の村」に移築保存されている社屋建物は1909年(明治42年)に建て替えられたもので、旧「札幌拓殖倉庫」と同じく、「札幌軟石」を外壁に積み上げた明治期石造建築の特徴が現れた建造物です。小樽にそのまま置いておいてもよかったかなとも思いますが。

イメージ 4 ▲旧「小樽新聞社」。1909年建築の二代目社屋。

 旧「小樽新聞社」の隣は、旧「浦河支庁庁舎」。

 3回前にUPした「その8」の記事の旧「浦河公会会堂」の部分で書いたとおり、浦河郡には、神戸「赤心社」の主導で1881年(明治14年)から入植が始まり、開拓は苦難の連続でしたが、明治20年代には軌道に乗り始めていたそうです。浦河の港も、昆布をはじめとした海産物などの物資の集積地として賑わいを見せ始めていたというそんな頃、1897年(明治30年)、北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度へ移行すると、浦河支庁が設置され、郵便局、裁判所、警察署などの諸官庁や銀行などが相次いでできて、浦河は日高地方の行政・経済・文化の中心地として発展していきました。

 さてこの支庁庁舎ですが、地元の要望は、火災による焼失の経験から不燃性の石材か煉瓦で建ててくれというもので、耐火建設ならばということで地元も資金を拠出し、道庁も予算を計上したにも拘わらず、なぜか木造2階建てで1919年(大正8年)に竣工。ぱっと見は、石材建築に見え、しかも、ルネサンス風の左右対称の建造物になるところが左側の張り出し棟がなく、なんとも不格好な仕上がりになっています。どうしてこんなことになったのか、今もナゾらしいですが、地元はさぞやがっかりだったことでしょう。1956年(昭和31年)に浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されていたそうです。

イメージ 6 ▲ピンクの塗色もあって、遠目には石積み建築のように見えなくもない木造の旧「浦河支庁庁舎」。

 そして、ビジターセンターになっているのが、旧「開拓使札幌本庁舎」。これはまた大きくて立派な建物です。

 蝦夷地開拓のため、政府の行政機関として、1869年(明治2年)に開拓使が設置されます。1872年には、本庁舎新築工事が始まり、翌1873年に本庁舎と付属建物が竣工するも、1879年(明治12年)の火災で焼失。その後、開拓使が廃止され、1886年(明治19年)に北海道庁が発足すると、1888年(明治21年)に新しい本庁舎が完成します。ただ、これもまた1909年(明治42年)の火災で内部と屋根を焼失してしまうので、開拓使札幌本庁舎の建物は残っていません。「開拓の村」にあるのは、1873年(明治6年)に竣工した初代庁舎の外観だけを再現したものです。開拓使庁舎で道内に現存している建物は、数回前の記事で紹介した旧「開拓使工業局庁舎」だけだそうです。

 ついに、「北海道開拓の村」のメインゲートである旧「札幌停車場」に戻ってきました。自然の中を散策しながら、本当にタイムスリップしたかのように、開拓時代の北海道の様子を垣間見てたっぷりと勉強することができました。

 この旧「札幌停車場」は、仮停車場から数えて三代目で、1908年(明治41年)に建設された札幌停車場の正面外観を縮小再現したもので、1952年(昭和27年)まで使われていました。初代停車場は、1880年(明治13年)11月28日、手宮(小樽市)~札幌間に開通した幌内鉄道の終点・札幌停車場として建てられた仮駅舎。1882年1月からは木造平屋建ての新駅舎が使われるようになりました。こんなふうに始まった札幌駅が、今や、新幹線のホームをどこに設置するかという話題で盛り上がっているのですから、札幌駅開業から138年、三代目駅舎供用から110年、まさに隔世の感であります。

イメージ 7 ▲周りの緑に溶け込むように、白壁と緑のふちどりの旧「開拓使札幌本庁舎」。

イメージ 9 ▲「北海道開拓の村」の玄関、旧「札幌停車場」。実際の五分の四のサイズで外観を再現したものです。