毎日ヶ原新聞

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明治開拓初期の遺構たち(2017年月イチ日本・夏休み編;その8)

イメージ 3 ▲馬車鉄道の線路がまっすぐのびる「市街地群」のメインストリート。生い茂る並木がなんとも気持ちいい。

 2017年8月13日、農村群から市街地群へ。

 馬車鉄道を降りて「農村群」の広い通りをのんびり歩いて戻り、「こどもの広場」の手前で左に折れ、「市街地群」の馬車鉄道通りに並行する一本手前の道を進むと、右手には石積みのどっしりした長大な建物。これをどこかから移築するのはたいへんな手間だったのではと思わせます。

 この建物は、旧「札幌拓殖倉庫」。もともとは、明治後期の札幌の倉庫業の草分けの一つで、「札幌區北六條西壱丁目弐番地」を本社所在地とする「五十嵐倉庫合名会社」が、1907年(明治40年)に建てた倉庫群を建てたうちの一つ。札幌駅北側に隣接して線路に直角に建っていた6棟の倉庫のうちいちばん西側の棟だそうです。1912年(明治45年)に創業した「拓殖倉庫株式会社」が、この倉庫軍を購入して引き継ぎ、開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献したのだそうです。使われている建材は、「札幌軟石」という支笏湖の火山噴火による火砕流が凝結した「溶結疑灰岩」で、軽く、加工しやすく、保温性が良く、火災に強いことから、開拓期から建築資材として利用されていたそうです。今の「白い恋人パーク」内の「あんとるぽー館」など、札幌市内には札幌軟石を使ったレトロな建造物が今も多く残っているらしいです。

イメージ 1 ▲「こどもの広場」に面して開けた場所には、どっしりとした石積みの建物。右は「市街地群」建造物の裏側。

イメージ 2 ▲「札幌軟石」を使った「札幌拓殖倉庫」の倉庫。星形の社徽の中央には「札」の字が入っていたはず。

 旧「札幌拓殖倉庫」の星形マークの側の前を通り過ぎて、馬車鉄道通りに戻ると、馬車鉄道通りをまっすぐに貫く馬車鉄道の線路が大きくカーブして「農村群」へと入っていくところに出ます。馬車鉄道通りは馬車鉄道は複線ですが、「農村群」へのカーブへさしかかる直前から終点までは単線になるんですね。

 「市街地群」の「農村群」へ抜けるいちばん端にある建物は、旧「本庄鉄工場」。1897年(明治30年)から2代続いた鍛冶屋さんで、この建物は1925年(大正14年)から昭和50年代まで使用されていたものを、1985年(昭和60年)に移築したそうです。看板には「農機具漁具他一式」とあるとおり、石狩川河口の石狩郡親船町(今の石狩市親船町)にあったこの鍛冶屋さんは、春先には農機具をつくり、夏から秋にかけては、河口での鮭の刺網漁船の部品などをつくっていたそうです。屋号は「カネマタ」だったようですね。

イメージ 4 ▲「市街地群」から「農村群」へのカーブ。馬車鉄道の線路の分岐が見えますね。

イメージ 5 ▲石狩川河口で農機具や漁具をとんてんかんとつくっていた「本庄鉄工場」の建物。

 旧「本庄鉄工場」の向かいにあるのは、旧「浦河公会会堂」です。

 北海道開拓を目指して、旧三田藩士・鈴木清や岡山出身の加藤清徳らが1880年(明治13年)に、神戸・栄町に「赤心社」を創立。同社は当時では珍しい株式会社で、貧しくても株を持てるよう分割で買える制度を導入して開拓資金を集めたそうな。翌1881年に兵庫や四国などから浦河郡西舎村や荻伏村に結社移民として入植が始まり、1882年には第2次移民団が北海道浦河町に入植しました。旧三田藩主九鬼家の牧牛飼育に携わっていた澤茂吉(のちの「赤心社」副社長)が現地指導者に抜てきされ、馬の改良に取り組むなど、日高地方の馬産や酪農の基礎を築いたのだそうです。

 「赤心社」にはもともとキリスト教徒が多かったそうですが、当時、開拓民にとって最大の苦痛は、教育施設と精神修養の場がないことであったことから、当初は、二間半に五間(約41平米)の粗末な草小屋で、澤茂吉副社長の指導の下、月曜から土曜まで寺子屋式の教育が、日曜日には安息日学校を開いてキリスト教の講話が行われていました。これがやがて、1885年(明治18年)には、私立赤心学校を兼ねた元浦河伝道所となり、翌1886年(明治19年)、神戸公会からやって来たアメリカン・ボード(1810年に設立された北米最初の海外伝道組織)のオラメル・ギューリック宣教師と原田助牧師の臨席の下、田中助牧師他13名の教会設立者によって、元浦河教会(元浦河組合教会、のちの浦河公会)が設立されました。

 設立式と牧師按手礼では、田中牧師夫人エイがギューリック氏寄贈のオルガンを弾き、皆で讃美歌五二を歌い、聖書の朗読、ギューリック氏の説教、公会の主意、信仰の朗読などが行われたそうです。

 「開拓の村」に移築してある建物は、1894年(明治27年)に、485円の寄付金で建てた2代目の会堂で、1930年(昭和5年)に二階が増築され、1983年(昭和58年)までの89年間、 信者たちの祈りがささげられていました。中に入ってみると、礼拝堂には、説教台やオルガン、石炭ストーブなども置かれていますが、このオルガンは、ギューリック氏寄贈のオルガンがそのまま残っているのでしょうか。

イメージ 6 ▲1894年に建てられた2台目の「浦河公会会堂」。

イメージ 7 ▲中の礼拝堂には石炭ストーブやオルガンも。1886年の設立式で演奏されたオルガンでしょうか。