毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

会津若松鶴ヶ城(2016年月イチ日本・10月編;その7)

イメージ 9 ▲戊辰の戦役で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月、難攻不落の名城・会津若松鶴ヶ城。

 2016年10月2日、会津若松、快晴、暑し。

 翌日も、会津若松地方は雲一つない快晴になり、絶好の行楽日和。気温も上がり、10月とは思えぬ汗ばむ陽気です。

 宿泊した東山温泉「御宿東鳳」さんからの無料送迎バスは、会津武家屋敷→飯盛山→会津若松駅→鶴ヶ城というルートでまわり、駅以外へ行きたい人にも便利なので、我々も10時ちょうど発のバスに乗りました。ほぼ満席でしたが、ほとんどが会津若松駅で降りてしまいました。若松駅前を出て鶴ヶ城へ向かう途中、国道118号線を南下していると、前方が通行止めになっています。この日は朝から「第28回 会津若松市鶴ヶ城ハーフマラソン大会」が開かれていて、交通規制がかかっているようです。

 送迎バスは、通行止めを避けて小道を走り、いつもはどこで後者なのかわかりませんが、鶴ヶ城公園北側の「鶴ヶ城会館」の駐車場へ入って、「今日はここでお願いします。会館の中を抜けて行けばいいですから」とのこと。おみやげなどが豊富に並ぶ「鶴ヶ城会館」の中を抜けて、「北出丸」から鶴ヶ城公園へと入ってまいります。

イメージ 1 ▲「北出丸」から望むお濠と対岸の石垣。

イメージ 2 ▲「北出丸」入口にある「史蹟 若松城跡」の碑。

イメージ 3 ▲「北出丸」から「本丸」へ続く「椿坂」。背の高い石垣が続く。

 「北出丸」は、加藤明成のときの1639年に馬出を出丸に整えたものだそうで、城の大手口を守る重要な場所であったそうな。

 「椿坂」を抜けて「本丸」に入ると、ついに見えてきたのが天守閣。おおーーー、雲一つない青空を背景に、これは美しい~~。

 鶴ヶ城のはじまりは、源頼朝が東北を支配下に置いた後に会津北部を領地として与えられた鎌倉御家人・佐原一族の一員である葦名氏が、1384年(至徳元年)に、現在の会津若松市小田垣に築いた小田垣の館または東黒川館という館だとされています。鶴ヶ城が現在の姿になるのは、17世紀になって、加藤氏が愛媛松山から入封してからで、1639年(寛永16年)に着手された大改修で、天守閣を五層にし、西出丸、北出丸を増築したことによります。

イメージ 8 ▲2011年年春に幕末時代と同じ赤瓦をまとった日本で唯一の天守閣となったそうな。

 天守閣の中は見学できるようになっており、入口入ってすぐの「塩蔵」から五層目の展望層まで上りながら、鶴ヶ城の歴史を振り返ることができます。

 鶴ヶ城は、明治に入って開城されると、建造物は全て解体されてしまったので、当時のまま残っているのは石垣ぐらいのものです。「塩蔵」は、天守閣を支える「天守台」と呼ばれる石垣の内側にあったことから天守閣内で残っている唯一の遺構です。海のない会津に越後などから運ばれた塩を保管しておいた蔵で、戊辰戦争時には36,000俵もの塩が貯蔵されていたそうです。

イメージ 4 ▲「天守台」の石垣の内側に残る「塩蔵」を再現したコーナー。

 「塩蔵」の上の一層目のテーマは「鶴ヶ城の歴史と会津の遺産」、二層目は「領主の変遷と国づくり」、三層目は「幕末の動乱と会津」、この三層目で戊辰戦争や白虎隊など幕末期の歴史を詳しく知ることができます。「会津戦争シアター」もあります。そして四層目では「会津のゆかりの先人たち」をパネルで説明。そして五層目が城下町を見下ろせる展望台です。

 いやー、なんとも気持ちのよい眺め!よく晴れ渡った会津若松市内と、それを取り囲む山々がとてもよく見渡せます。お天気に恵まれたこともあって、展望台の五層目は多くの入場者で混雑していましたよ。

イメージ 7 ▲天守閣から続く「南走長屋」、奥のまだ改修中なのは「干飯櫓」。

イメージ 6 ▲あれは会津磐梯山かなあ。

イメージ 5 ▲「本丸」内の芝生には、野点のテントがいくつも。