茶室「麟閣」(2016年月イチ日本・10月編;その8)
▲あまりにも鮮やかな青空を背景に、鶴ヶ城天守閣。
2016年10月2日、二の丸から三の丸へ。
天守閣前の本丸には、今はほとんど建造物は残っておらず、芝生の広場が広がるだけですが、この日はこの芝生の上にテントがたくさん設置されています。かなり規模の大きい野点の行事が行われているようです。
ここでこれほどの野点が開かれるのは、本丸の中に茶室「麟閣」が残っているからでしょう。
「麟閣」は、千利休の養子・少庵が会津にかくまわれている時期に、当時の会津の領主・蒲生氏郷のために造ったと伝えられています。建造年は1591~1593年あたりになりましょうか。明治になって鶴ヶ城が取り壊しに遭うと、城下へ移築されましたが、1990年に会津若松市がこれをもとの本丸内に再度移築し、今に至っているそうです。
▲苔生した地面が歴史を感じさせる茶室「麟閣」の「腰掛け待合」。
▲茅葺きの茶室「麟閣」。こちらは鎖の間の「蒲鶴亭」側。
▲入母屋造りの茅葺屋根に土壁の真壁造りによる草庵風。
「麟閣」は、東日本には珍しいとされる草庵風の造り。三畳台目を基本に、台目畳の点前座と反対側に一畳の相伴席を付けた平面を持つ小間が「麟閣」で、そこから六畳の書院造の「鎖の間」が続いており、「鎖の間」の方の席名を「蒲鶴亭(ほかくてい)」と称しています。「鎖の間」とは、座敷飾りができる一種の書院で、古田織部らによって、小間、「鎖の間」、書院までをつなぐことで、小間では得られない書院風の座敷飾りをも茶会に取り入れ、 一日のうちに座をかえて茶を楽しむことを可能にしたものであるとされます。茶室「麟閣」が利休風というよりは織部風と言われるゆえんです。
▲「鎖の間」である「蒲鶴亭」。手前右に相伴席へつながる給仕口がある。
茶室「麟閣」を出て、野点が開かれている本丸の広場を抜け、旧表門を出て東の帯郭に沿って歩き、「廊下橋」を渡って「二の丸」へ出ました。今はテニスコートになっている「二の丸」を突っ切ると、県立博物館などが建っているあたりが「三の丸」。加藤嘉明の時代までは、「三の丸」側が鶴ヶ城の「大手門」、つまり正面であったそうで、したがって「廊下橋」が大手口でありました。葦名氏の頃には屋根付きの廊下造りの橋だったことからこの名があるそうです。
▲厚く苔のむした石垣が歴史を感じさせます。
▲がっしりと美しく積まれた帯郭に沿って「二の丸」へ向かいます。
▲お濠を渡って「二の丸」へ。
▲赤い欄干が「廊下橋」、その奥が本丸方向。
▲「廊下橋」の下には水がない。
▲二の丸から「廊下橋」越に天守閣を一望。