毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

茶室「明々庵」(旅するニッポン、春たけなわ;その9)

イメージ 1 ▲不昧公の茶室「明々庵」へ至る石の階段の入口。

 2016年4月3日、茶の湯の心。

 前回の記事で少し触れましたが、松江藩松平氏の第七代藩主の松平治郷は、茶人として一流の才能を有し、石州流を学んだ後に自ら不昧流を打ち建てます。茶室もいくつか築き、「菅田菴」(寛政2年(1790年)築)、「明々庵」(安永8年(1779年)築)など現存するものもあります。また、茶の湯が発展したことで、松江では和菓子作りも盛んになり、松江城下では銘品と呼ばれるようになるものが数多く生まれたそうです。

イメージ 2 ▲左手前に入園券購入窓口があり、この露地門から茶室のある庭園へと入ります。

イメージ 3 ▲露地門の屋根にも苔むしているようで、しっとりと落ち着いた雰囲気。

イメージ 4 ▲露地門を入ると、茶室の手前には簡素な塗り壁の腰掛待合付中門があります。

イメージ 5 ▲内側には腰掛けがあり、亭主が呼びに来るまで、客はここで待つのですね。

 松江歴史館から宇賀橋を渡ってお濠の北側に出て、小泉八雲記念館、田部美術館方面へお濠沿いを歩いて行き、「県立松江北高等学校→」という標識が出ている信号のあるT字路まで来たら、これを右折。急に狭くなった道を少し進み、松江北高へは左へ折れるところをそのまままっすぐ進みます。住宅街ですが、なんかこのへんは豪邸ばっかりですね!

 そしてそのまっすぐな道がさらに狭くなりながら上り坂になり、道が木立に覆われ始めるあたりに、「明々庵」へ続く石段がありました。

イメージ 12 ▲庭園のいちばん奥まったところに見える茅葺き屋根が茶室です。

イメージ 9 ▲茶室前には小石が敷き詰められ、石灯籠や石鉢が。

 石段を上りきると、高台の上はきれいに庭が手入れされています。奥の建物に窓口があり、ここで入庵券を購入するのですが、相手をしてくれた初老の男性が青森県むつ市出身と聞いてビックリ!松江で青森県人に出会うとは……

 ここから先が、「明々庵」です。藩主・松平治郷、即ち茶人・不昧公が、1779年に家老有沢弌善邸に建てた茶室。その後、東京の松平伯邸に移されていましたが、1928年(昭和3年)に戻され、1966年(昭和41年)に不昧公没後150年を記念して、ここ「赤山」の台地に移築されたとのことです。

イメージ 6 ▲茶室全景。軒の下が「にじり口」。

イメージ 10 ▲正面が「つくばい」と「貴人口」。

 茶室は、茅葺の厚い入母屋造り。茅葺の分厚い屋根を持ちながら、二畳台目の席は、点前座と客座の境に通常立てられる中柱がなく、炉も向切り。床の間も、五枚半の杉柾の小巾板をそぎ合わせた奥行きの浅い床。定石に頓着しない軽快な造りは、客と亭主の間には仕切るものは必要ないという不昧公の趣向が現れているのでしょう。

 茶室の中に入ることはできませんが、にじり口から二畳台目の茶室の中をのぞくことができます。にじり口の正面には床の間があり、「明々庵」と書かれた掛け軸が下がっていますが、これは不昧公直筆のものだそうです。

イメージ 7 ▲にじり口から覗く中は二畳台目の茶室。

イメージ 8 ▲不昧公直筆の掛け軸。

 茶室と庭をはさんで隣接している新しい建物は、「赤山茶道会館」。大小数々の和室、洋間、水屋、厨房などを備え、流派を問わず、お稽古やお茶会などに利用されているとのこと。一階の庭に面した6畳と8畳のぶち抜きの和室では、特に活動が行われていなければ、ここでお茶をいただくことができます。

 茶菓子は、昭和4年創業「三英堂」の「菜種の里」と「若草」。「菜種の里」は春の菜畑を蝶が飛びかう様を表現した打ち物。「若草」は良質のもち米を求肥に練り上げ、若草のように仕上げたもので、どちらも不昧公の好物であったそうな。そして濃茶を一服いただき、なんとも風流な気分になりました。

イメージ 13 ▲茶室に隣接する「赤山茶道会館」の座敷で、お茶を一服いただきます。

イメージ 11 ▲茶菓子は不昧公も好んだ「菜種の里」と「若草」。

 すっかり茶の湯の世界に浸ってしまいましたが、なかなかいいもんですね。

 来た道を戻ってくると、石段の下り口のところから、松江城が遠望できるではないですか。ここは「城見台」といい、隠れた松江城ビュースポット。今の明々庵は移築されてきたものなので、不昧公がここに立って松江城を眺めたということはまさかないでしょうけれど、お城とともに茶の湯の栄えた松江らしい風景ですね。

イメージ 14 ▲明々庵城見台から遠望できる松江城。