毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

長崎ミルクセーキ(念願かなってセイロンティーの旅;その52)

イメージ 2 ▲雲一つない快晴の長崎の空に向かって「原爆の脅威」を指し示す平和祈念像の右手。

 2017年4月30日、エッグノッグ。

 好天に恵まれて九十九島クルージングを楽しんだあとは、一気に長崎市内を目指します。

 長崎道経由だとすごい遠回りになるし、どうやって行こうかなと考えながら走っているところに「西海パールライン」の標識が目に止まり、西海市の方を通るなら近いかもと思い、この道を選択。ハウステンボスを左に見ながら国道202号線指方バイパスを走り、江上ICから入り、小迎ICまでの5kmが「西海パールライン」。高速道路ではなく有料道路なので最高時速は70km、通行料金は200円。そのあとは国道206号線小迎バイパスを走って、ここまではGW期間中だというのにとにかく車の通行量が少なくて、大村湾の海と島々を眺めながら、実に快適快適。小迎バイパスが終わって国道206号線一般道になると多少走りにくくはなりますが、楽しいドライブでした。

イメージ 4 ▲ほぼ20年ぶりに訪れました、長崎平和公園。

イメージ 1 ▲昭和30年建造の平和祈念像は今も変わらず。

 九十九島パールシーリゾートから西海パールライン経由で長崎平和公園まで70km弱を走って、午後1時にはまだならないくらいに長崎平和公園に到着しました。

 長崎平和公園を訪れるのはほぼ20年ぶり2回目。前回は仕事だったので、ほとんど何もできず終いだったので、今回はまずはしっかり平和祈念像の前に立ち、戦争の惨禍、とりわけ長崎、広島に落とされた原爆によるあまりにも甚大な戦争の爪痕を思います。

 平和祈念像は、高さ9.7m、重さ30トンで、青銅製。「天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想い」が込められているとのこと。祈念像の隣には、原子爆弾犠牲者の霊を慰め、二度と原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を掲げるために、ライオンズクラブ国際協会長崎北クラブが創立15周年記念事業で設立した「折鶴の塔」があり、色とりどりの千羽鶴がかけられています。

イメージ 3 ▲祈念像のすぐ隣には「折鶴の塔」があり、色とりどりの千羽鶴が納められています。

 吹き上がる噴水の水しぶきの間から遠く祈念像をまっすぐに見据えることができる位置にあるのが昭和44年につくられた「平和の泉」。「のどが乾いてたまりませんでした」という「あの日のある少女の手記から」の言葉が刻まれた石碑が印象的です。焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら死んでいったそうです。どれほど熱く、痛く、苦しかったことか。今、世界は、二度と原爆の惨禍が繰り返されないようにするだけではなく、飲む水があることを守らなければそれさえもなくなってしまうような環境に近づきつつあるような気もします。

イメージ 6 ▲平和の泉に上がる噴水。あの日のある少女の手記の言葉と祈念像が交錯する。

 祈念像と平和の泉のちょうど中間あたりに、芝生の中に石敷きの建物の基礎部分が見られます。

 これは「長崎刑務所浦上刑務支所跡」。かつてここにあった敷地面積約2万平米の長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地から北へ最短約100m、最長約350mで、爆心地にもっとも近い公共の建物だったそうです。その瞬間、そのとき刑務所内にいた職員18名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人少なくとも13名を含む)の計134名全員が即死し、周囲の高さ4m、厚さ0.25mの鉄筋コンクリート塀もほとんど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突だけを残して粉砕全全焼しました。跡地にある案内板には、「戦災跡」として、何もかもなくなって更地のようになった当時の跡地の写真も添えられています。ここに見える礎石は復元したものだそうですが、すぐ近くには倒壊した外壁の根元の部分の一部がそのまま残っているそうです。

イメージ 5 ▲爆心地からわずか100mのところで一瞬で消し飛んだ長崎刑務所浦上刑務支所跡。

 平和公園で平和への祈りを捧げたあとは、あまりにも天気がよく汗ばむ陽気なので、ひと休みしようと思い、「長崎出島ワーフ」へ移動。浦上川の河口、長崎湾を望むベイエリアは、正面に五島列島へ向かうフェリーの桟橋がのび、その向こう、長崎湾越しに稲佐山が山頂までくっきりと見えています。

 出島ワーフにはたくさんのレストランやショップが並んでいて、ランチも食べようかとも思いましたが、どこも混んでいてなかなか入れない感じ。2階に「長崎の教会群インフォメーションセンター」があったので、ここを見学して、今回訪れてきた田平天主堂や平戸ザビエル記念教会だけでなく、世界遺産登録を目指す「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のパネル展示等をじっくり見学し、出るときにはたくさん資料もいただいて、思いのほか充実しました。

イメージ 7 ▲長崎出島ワーフから眺めた稲佐山。手前は五島列島を結ぶフェリーのりば。

 ランチはあきらめて、オープンテラスに椅子とテーブルとパラソルを並べたジェラート屋さん「イルマーレ」にて、とにかく一服。見ると、「長崎名物ミルクセーキ」とある。

 へえ、ミルクセーキって長崎名物だったの?

 なんでも、長崎ではミルクセーキとは「飲み物」ではなく、食べるものらしい。1925年(大正14年)に九州初の喫茶店として開店した九州最古の喫茶店、長崎市油屋町の「ツル茶ん」。イングランドの東アングリアで誕生したと考えられている卵と牛乳を使った甘い飲み物「Eggnog」がミルクセーキの起源らしいのですが、これが幕末に西洋文化とともに日本に伝わったので、その当時から日本にはミルクセーキはあった。そこへ、「ツル茶ん」初代店長が、猛暑と坂道のWパンチが襲う長崎の夏に、汗だくになって往来している長崎人のために、たっぷりの氷を加えて改良したのが長崎流「食べるミルクセーキ」なのだそうです。だから、卵や乳製品を使っているわりに甘さ控えめで後味がスッキリってわけです。

 しかし、「飲むミルクセーキ」だってろくに飲んだことないし、フローズンデザートの一つだと思って、長崎のミルクセーキ、いただきまーす!

イメージ 8 ▲「ミルクセーキ」の起源が「Eggnog」というものだとわかったことのほうがウレシイかも。