毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

世界遺産・九門口長城(後編)

イメージ 9 ▲まだあのはるか先の楼台まで上っていかなければ……

 2017年8月27日、秘密のトンネル。
 
 「九門口」の谷底から、急峻な尾根伝いに建造された城壁を上って行きます。石段があるところは上りやすいですが、ないところは、雨で滑りやすくなっているだけに、慎重に一歩一歩踏みしめていかねばなりません。

 修復と復元が施されて上って行けるいちばん端のところが近づいてくると、城壁の左前方の山肌に「九門口」と赤い字で描かれているのが見えました。こういうの描かなきゃいいのにと思うのですが、中国人的には描かずにいられないのだろうな、きっと。

イメージ 1 ▲あの楼台までが開放されていて上って行くことができます。

イメージ 2 ▲山肌に赤いペンキで描かれた「九門口」の文字。自然のままにしとけばいいのに。

 ここまで上がってくると、対岸の尾根沿いにのびる城壁が見通せるようになります。対岸の方の城壁は一般観光客には開放されていなにので、上ってみることはできませんが、こちら側と同じように、城壁が谷底の「九門口」から斜面を一気に這い上がっています。城壁の上部には草が生い茂っているので、城壁の上を伝って上ろうと思ってもちょっと無理そうです。対岸の方の城壁は修復されたものなのでしょうか。ぱっと見たところ、草は茂っているものの、側面の石積みや楼台、のろし台などもしっかりとした造りがそのまま残っているようにも見えます。

イメージ 5 ▲「九江河」東岸の斜面に築かれた城壁。

イメージ 4 ▲城壁の上には草が生い茂ってますが、城壁も楼台なども造りはしっかりしてる感じ。修復したのかな?

イメージ 6 ▲対岸の山の中腹あたりには、はっきりと石段があることがわかる部分も。

イメージ 3 ▲こちらの城壁の上から対岸の城壁の望楼を望む。

 僕は入ったことはないんですが、「九門口長城」の下には、「秘密のトンネル」があり、今となっては秘密でもなんでもないので、普通に入ってみることができるらしいです。

 このトンネルは、明代に、城壁の内側にあった練兵場と城壁の外側の山腹までの全長1,027mにわたって掘られたもので、中には食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などに使われていた大小29の洞があり、2,000人以上の兵士が暮らせるほどのものだったとか。1644年には、ここで「一片石の戦い」が勃発します。この年、李自成の乱が起きて崇禎帝が自殺し、明王朝が滅ぶと、李自成は「順」という国を建国し、自ら順軍を率いて、北京防衛のために山海関から送られながら途中で明が滅んだので山海関へ引き返した明の将軍・呉三桂に迫ります。呉三桂はこれを見て清に降り、李自成の順軍が迫ったのを見計らって、清軍にこのトンネルを抜けて、突如、李自成軍の後方に出現させ、挟み撃ちで李自成軍を大敗させ、これを機に、清軍は一気に北京へ進攻しました。清が長城を越えて北京入城を果たす、重要な戦役であったと言えましょう。

 城壁を上れるところまで上って高みからの眺望を楽しんだあとは、もと来た城壁をゆっくりと下ります。雨はおおむね止み、谷間に横たわる「九門口」がくっきりと見えるのでした。

イメージ 8 ▲だいぶ下りてきました。このあたりが城壁の上り口らへん。

イメージ 7 ▲雨も止み、「九門口」がどっしりと「九江河」にかかっています。