毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

世界遺産・九門口長城(前編)

イメージ 1 ▲世界遺産を示す碑も以前より立派になったか。右奥に河上の城壁が見えますね。

 2017年8月27日、唯一の河上長城。

 8月最後の日曜日、日本から久しぶりに遊びに来てくれた瀋陽での元同僚を案内して、世界遺産「九門口長城」へ行ってきましたので、前編後編に分けてご紹介。

 遼寧省葫蘆島市綏中県にある「九門口長城」は、「万里の長城」の一部を成すものとして後に追加登録された、「万里の長城」の最東部を構成する長城で、ここをじっくり訪れるのは2008年の夏以来、9年ぶり(そのときの記事はコチラ。)。この9年の間に観光地としての整備が進み、入場券売場から長城の登り口までもずいぶん立派になりました。

イメージ 2 ▲入場門の内側に続く柳の並木はみごと。

 この日の天気は、残念ながら雨。しかし、雨に煙る長城もまたをかし。

 明代長城の最東端は、河北省と遼寧省の省境にある「山海関」という関所の楼閣と、城壁が海へと沈む「老龍頭」ですが、そこへ至る少し手前にあるのがこの「九門口」。城壁が「九江河」という川を渡る部分があり、その部分の城壁が橋のようになっていて、その橋脚に当たる部分に九つのアーチがあるので、「九門口」と呼ばれています。

 この橋のようになった部分は長さ110m、幅23m、高さ10m。下を流れる「九江河」は季節河川で、渇水期には水流が減り、断流して涸れ川になることもあって、そのような時には敵が河床をつたって攻め寄せてアーチ部分から城壁を突破するおそれがあるので、かつてはこのアーチ部分には二層になった巨大な木の扉が設けられ、水流が減ったり涸れたりする時期にはその木の扉が閉じられていたそうです。

イメージ 4 ▲川に架かって橋のようになっている城壁。アーチ部分にはかつて木の扉がつけられていたらしい。

イメージ 3 ▲対岸へのびる城壁。川の上になっている部分の長さは110m。

 2008年にUPした記事では、九門口長城が形成されたのは明の景泰元年、西暦1450年の頃と書きましたが、雑誌「人民中国」のWeb版によれば、九門口長城の建設が始まったのは明の洪武14年、1381年からだとか。

 紀元前の春秋戦国時代から建造され続けたいわゆる「万里の長城」は、北方騎馬民族の侵入を防ぐことを最大の目的としていたので、建造の基本方針は「遇山而断 遇水而絶」、つまり騎馬が越えられない高山や大河には建造せずが原則だったのですが、にも拘わらずここに城壁が築かれたのは、上述のとおり、「九江河」の水深が浅く、時期によっては断流することもあって、騎馬の軍勢に容易に侵入されるおそれがあったからなんですね。

 「九江河」上にかかる「九門口」城壁の部分が谷になっていて、川の両岸からは急峻な尾根に続く城壁が残っていて、川の西岸の方は、のろし台や歩哨のための楼も含めて修復と復元が施され、上って行くことができます。9年前に来たときは、いちばん上まで上ることができなかったので、今回は、あいにくの雨ですが、がんばって上ってみようと思います。

イメージ 5 ▲「九江河」西岸の上れる方の城壁を上り始めたところ。

イメージ 6 ▲少し上って振り向くと、「九門口」が川に架かっている様子がよくわかります。

イメージ 7 ▲だいぶ上ってきた感じがします。先はまだまだあるんですが。