毎日ヶ原新聞

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山陰鐵道發祥之地(2017年月イチ日本・7月編;その12)

イメージ 2 ▲米子駅前に展示保存されているC57形43号機の動輪が最後に走ったのは米子のあたりだったのか。

 2017年7月24日、境線乗れず。

 特急「スーパーまつかぜ5号」で、鳥取からジャスト1時間、12:40に米子到着。米子駅で下車するのは初めてです。

 米子駅の駅舎は、大きくてなんだか無骨な市役所みたいな建物。現在、「JR米子駅南北一体化事業」が進んでいて、2023年度までに南北自由通路や半橋上駅、新駅ビルなどが整備される予定らしいですが、今ある駅舎は1963年に建てられたもの。国鉄時代は米子鉄道管理局、JRになってからは西日本旅客鉄道米子支社の建物で、それが駅舎を兼ねているので、こんな役所っぽい建物なのでしょう。

イメージ 3 ▲なんだか市役所みたいな米子駅の駅舎。

 駅前にSLの動輪が展示保存されているのを発見。動輪の横にある石碑は「山陰鐵道發祥之地」の碑。そう、ここは山陰地方の鉄道の発祥の地らしいんです。

 動輪は、C57形43号機(C57 43)の動輪で、この機関車が最後に配置されていたのが米子なのだそうです。で、石碑には、「陰陽線なる境鉄道の開通式を伯耆米子町に挙行し,試運転を行へり。来会者一千余名(中略)同地は一帯に国旗, 球灯をかかげ, 歓喜の様, 非常なり(後略)」という、境~米子~御来屋間35kmで1902年(明治35年)11月1日に境鉄道が開通した開通式の模様を伝える当時の新聞記事の一部が引用されています。山陰地方最初の鉄道は、今の境線だったんですね。

 引用されている記事で気になるのは「陰陽線なる」という文言。調べてもはっきりはわかりませんでしたが、この文言からするに、山陰最初の鉄道は、将来的には陰陽連絡鉄道となることが計画されていたような気配があります。1936年(昭和11年)4月8日付の「山陽新報」に、津山~姫路の「姫津線」の全通式が行われたことを伝える記事が掲載されており、その中に「第一の先覚者は勝田郡高取村の故大岡熊治郎氏である、氏は明治廿五年和気より伯耆の境港へ貫く和境鉄道の敷設を企画した」、「遂に和境鉄道計画は水泡に帰した」との記述があり、当時、陰陽連絡鉄道として「和境鉄道」が計画されていたことが窺えます。

イメージ 1 ▲C57 43の動輪と、「山陰鐵道發祥之地」の碑。

 さて、僕はこれから境港市役所へ行かねばならないのですが、境線の列車は13:22発の1649Dまで待たなければならないので、13:00発の境港駅行きのバスで行くことにしました。途中に「市役所入口」というバス停があり、13:43到着予定。バスの方が便利そうですね。

 境線には乗ったことがなかったので、用事を済ませた帰りに乗ろうと思っていたのですが、仕事の流れで境港市役所の人と米子市役所へ急遽行くことになり、堺市役所の車に乗せてもらったので、境線には残念ながら乗れなかったです。。。

 結局、米子市役所から米子駅まで車で送ってもらい、17:26発の1026M特急「やくも26号」に乗って岡山へ戻ります。米子駅のホームは3面6線で、境線が発着するのは0番線。境港が「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家水木しげる先生の出身地なので、境線が発着する「0番ホーム」も「霊(れい)番ホーム」と呼ばれているとか。

イメージ 5 ▲米子駅1番線ホームから跨線橋と2/3番線ホーム、4/5番線ホームを望む。

イメージ 4 ▲次に乗る17:26発の特急「やくも26号」は1番線からの発車。霊番線ホームもあるよ。

イメージ 7 ▲駅舎が1963年築なだけに、ホームも昔ながらの国鉄ホームという趣。

イメージ 6 ▲ホームの上部には特急「やくも」の乗車口案内が。

 この日の最終目的地は岡山ではなく、岡山で新幹線に乗り換えて博多へ、博多で特急「みどり」に乗り換えて更に佐世保へと移動しなければなりません。「やくも26号」の岡山到着は19:38で、できれば岡山発19:43の「みずほ619号」に乗り継ぎたい。乗継時間、5分。しかも、岡山駅の改札の外にあるコインロッカーに預けてきたキャリーバッグを引き取ってから新幹線ホームへ上がらねばなりません。さあ、岡山駅での乗換えはうまくいくでしょうか??

イメージ 8 ▲定刻で米子駅へ滑り込んできた特急「やくも26号」。