毎日ヶ原新聞

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平戸ザビエル記念教会(念願かなってセイロンティーの旅;その47)

イメージ 2 ▲田平町から平戸大橋を渡って平戸島へ向かいます。

 2017年4月29日、寺院も教会も。

 「たびら春まつり」を楽しんで会場をあとにし、平戸大橋を渡ります。

 平戸島へかかる平戸大橋は、長さ665mの吊り橋で、桁下の高さは30m。さっき平戸漁港から遠望したときはわかりませんでしたが、橋全体が朱色に塗られていて、空や海との鮮やかなコントラストになっています。

 春まつりが開かれていた場所はかつては北松浦郡田平町で2005年の合併によって平戸市になったのですが、もともとの平戸市はこの平戸大橋を渡った先の平戸島の方で、今も平戸市の中心は平戸島の方になっているとのことです。

イメージ 1 ▲平戸大橋の上から、平戸瀬戸の南方を遠望。

 平戸島に上陸し、まず訪れたのは「平戸ザビエル記念教会」。平戸の市街地の西側の丘の上に建つ教会です。

 明治時代に禁教が解けると(明治6年(1873年))、平戸にも教会が建てらるようになり、もともとカトリック信徒は少なかった平戸の市街地にも近隣から信徒が移転したことから、今の場所よりも少し西寄りの土地(現在「愛の園保育所」があるところ)に、1913年(大正2年)に「カトリック平戸教会」として仮聖堂が建てられ、やがて1931年(昭和6年)4月、今の場所に教会堂が建てられて献堂式が行われました。ゴシック様式の聖堂はかなりの高さがあり、最も高い中央の鐘塔は三層で、いちばん上野尖り屋根は八角錐。向かって左側にだけ小窓のある八角形の小塔があり、正面から見て非対称なのが特徴とのこと。「コンクリート造りらしい直線で簡潔にまとめられた装飾は、石造りの本格ゴシックにはない清々しさが感じられる」との評も見られます。

イメージ 3 ▲ゴシック様式のかなりの高さをもつ「平戸ザビエル記念教会」。

 明治に禁教が解けたのちも、平戸島の中心地に昭和になるまで教会がなかったのはなぜかとの指摘については、平戸では過酷なキリシタン弾圧が行われたため、禁教が解けたあとも、キリスト教に復帰しようとする潜伏キリシタンも新しくキリスト教徒になろうと思う者もほとんどいなかったからというのが事実だろうと思います。

 教会の保護者は大天使聖ミカエルですが、平戸は、「以後よく(1549)伝わるキリスト教」でおなじみ、フランシスコ・ザビエルが、3回も訪れた地。献堂40周年の1971年9月に、フランシスコ・ザビエルの像が聖堂の脇に建立され、「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」、更には「平戸ザビエル記念教会」と呼ばれるようになったのだそうです。

 また、敷地内には、献堂40周年にあたって建立された「平戸殉教者顕彰慰霊之碑」も見られます。碑文には「1587年、豊臣秀吉の禁教令発布で平戸の殉教者は激増した。度島・根獅子・生月・田の浦・薄香・中江の島・川内浦等で殉教した信者の数は四百人を越えると伝えられる」等とあり、いかに平戸の地での弾圧が厳しく、また信徒たちの信仰が強固なものであったかが窺われます。

イメージ 4 ▲敷地内に立つ聖フランシスコ・ザビエルの像。来年は渡来470年を迎える。

イメージ 5 ▲「平戸殉教者顕彰慰霊之碑」。信仰と弾圧のせめぎ合い。

 ザビエル記念教会の前の道を南に少し下り、教会の南側の小路を入って教会の裏手に出ると、そこは鬱蒼と茂った竹林。この竹林の中に石畳の細い道がのびていて、散策できるようになっています。

 この石畳の小道側が正門になって、平戸ザビエル記念教会に隣接して、光明寺と瑞雲禅寺という二つのお寺が並んでおり、この小道から見える教会とお寺が重なり合う風景が、日本と西洋の文化を感じさせる平戸を代表する景観のひとつ「寺院と教会の見える風景」になっているのです。

イメージ 6 ▲平戸ザビエル記念教会の裏手には、鬱蒼と茂った竹林の中を石畳の小道がのびていました。

イメージ 7 ▲光明寺の石段の下で振り返ると、石垣の上にザビエル記念教会の尖塔が。

イメージ 8 ▲平戸を代表する景観「寺院と教会の見える風景」です。