毎日ヶ原新聞

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田平天主堂(念願かなってセイロンティーの旅;その45)

イメージ 1 ▲色の異なるレンガをイギリス積みで築き上げられ天堂に向かうかのような「田平天主堂」。

 2017年4月29日、世界遺産の対象から除外はされたが。

 JR大村線小串郷駅から更に車で走ること約50km、70分ほどをかけてやってきたのは、「田平天主堂」。ちょうどこの年の年明けに、日本でのキリシタン迫害を描いたマーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」が公開されていたこともあってか(映画は結局見てないですが。)、長崎県のこちらの方に今まで来たことがなかったので、ちょっと教会めぐりをしてみたいなと思ったのです。

 「田平天主堂」は、正式には「カトリック田平教会」といい、国の重要文化財に指定されています。1915年(大正4年)12月着工、1917年(大正6年)10月竣工、1918年(大正7年)5月14日に献堂式が執り行われたこのレンガ積みの天主堂は、長崎県内のレンガ造教会堂としては最晩期の建築だそうです。

イメージ 4 ▲鐘塔の頂上部が八角のドームになっている形式は日本独特のものだとか。

イメージ 8 ▲天主堂の南面。レンガ積みの揺るぎのない堅固さが感じられます。

イメージ 10 ▲天主堂南側出入口。司祭館に面しているので司祭らの出入りに使われているのか。

 正面出入口の上には鐘塔がそびえ立ち、その頂上部は八角のドームになっています。この形式は日本独特のものだそうで、設計・施工に携わった長崎出身の大工棟梁・建築家の鉄川与助が好んだ形式だと言われています。

 レンガはイギリス積みで、交互に色の異なるレンガを積まれており、ススを塗った黒レンガによる装飾なども施され、鉄川与助のレンガ造の最高峰とたたえられています。そのレンガ積みの揺るぎのない堅固さは圧倒的です。中に入ることはできませんでしたが、ステンドグラスは新訳聖書からテーマをとって作成されたオリジナル作品だそうです。

イメージ 2 ▲正面入口前には「ルルドの聖母」像。

イメージ 9 ▲天主堂正面の一段下にはルルドの聖母マリア出現を再現した庭園がありました。

 正面入口前には「ルルドの聖母」像が、またその一段下がったところにも聖母マリア像と聖ベルナデッタの像があります。フランスのピレネー山脈のふもとの町ルルドの洞窟に聖母マリアが出現したことにちなみ、信徒移住百周年(1986年)を迎えた記念として1990年に洞窟を作り、このような信心の場を設けたのだそうです。

 天主堂の建設は、信徒の手作業によって行われ、レンガ、瓦、セメント、木材などの建材は船で運ばれ、レンガの目詰めに使うアマカワ(石灰と赤土を混ぜたもの)を作るための石灰は、信徒たちが各家庭で食べた貝の殻をここに集め、平戸や生月島からも貝殻を集め、貝殻焼き場を設けて、その中の窯で貝殻を焼いて作ったそうです。敷地内にはその貝殻焼き場の跡が今も残っています。

イメージ 3 ▲レンガの目詰め用アマカワを作るための石灰を得るために貝殻を焼いた貝殻焼き場跡。

 敷地内にはほかに信徒会館や墓地もあり、墓地入口手前には「イグナシオ中田藤吉神父」の胸像や「トマ大木勘次郎 パウロ浜口久衛門 顕彰碑」がたっています。前者は、1914年(大正3年)4月に着任した第2代教会助任の中田藤吉神父が、天主堂の建設に本格的に着手したことをたたえてのものでしょう。後者は、天主堂建設中の1915年12月28日に、祭壇附近の敷地造成工事で起きた事故により亡くなった大木勘次郎と浜口久衛門を、献堂60周年を迎えた1978年に改めてその殉難をしのぶために建立されたものだそうです。

イメージ 6 ▲天主堂建設に貢献したイグナシオ中田藤吉神父の胸像。

イメージ 5 ▲1915年に天主堂建設工事で殉難した2人の信徒をしのぶ顕彰碑。

 信徒会館に近い方には、「聖堂建設五十周年記念碑」があります。1968年5月14日に建立されたものです。

 田平天主堂は、明治の頃に渡来したパリ外国宣教会のラゲ神父やド・ロ神父らが荒れ地を購入し、九十九島の黒島や西彼杵半島などから、明治になってカトリックに復帰した隠れキリシタンを移住させたのが最初の信者であるとされ、やがて信者が増えていくに伴い、1879年(明治12年)に仮聖堂が造ら、その後、中田藤吉神父の本格的建設着手へとつながっていったのだそうです。

 天主堂は、平戸瀬戸を見下ろす高台にあり、雲一つない好天もあいまって、とても気持ちよく参拝することができました。さっそく、長崎に来たな!って感じがしました。

イメージ 7 ▲1968年に建立された「聖堂建設五十周年記念碑」。