毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

マカオの思い出(後編)

イメージ 1 ▲マカオの住宅街の中にひっそりと残る19世紀末の建物、「鄭家大屋」。

 2015年10月18日、ターボジェット・スーパークラス。

 媽閣廟前の広場から「媽閣斜巷(Calçada da Barra)」という小路へ入っていきます。すぐ右手に見えてくる大きな建物は1874年築の「港務局大樓(Quartel dos Mouros)」。ここで通りの名称は「媽閣街(Rua da Barra)」に変わり、この通りをずんずん歩いて行くと、やがて道の左手に白壁の長屋のような建物が続くようになるのですが、どうも出入口が見当たらない。すると道は小さな交差点に出て、「龍頭左巷(Travessa de Antonio da Silva)」という更に狭い小路へと左へ折れると、そこにその建物の出入口が!

イメージ 9 ▲出入口に立っただけでは白壁がそそり立つばかりで、中がなんだか全然わからない。

 ここは、「鄭家大屋(Casa da Cheang)」。「マンダリン・ハウス」とも呼ばれる、オリエンタルな建物。近代中国の思想家・鄭觀應の旧居で、建てられたのは1881年。広東省、広西チワン族自治区のあたり、嶺南地方の民家風の造り。孫文が香港の「華人西醫書院」で学んでいた頃、孫文がよくここへやってきて、鄭觀應と議論を戦わせ、救国救民の道を模索していたそうです。

イメージ 5 ▲長屋風の白壁の建物がずらりと連なる邸内。

イメージ 8 ▲邸内に入って振り向くと、そそり立っているのはマカオの一般庶民の住宅が。

イメージ 6 ▲19世紀へ一気にタイムスリップしたような気分。

イメージ 4 ▲いちばん奥まったあたりの一角。「日月光華」の扁額が架かる。

 それにしても、本当にこれは大邸宅です。長屋風の白壁の建物が長く連なり、扉から中を覗くと、奥の方へと細い廊下が続いたり、部屋が連なっていたり、うっかり中へ入っていくと、迷って出て来られなくなりそうです。敷地面積は約4,000平方メートル、部屋数は大小合わせて60余を数えるそうです。

 鄭觀應は、輪船招商局総裁などをしていましたが、招商局や太古輪船公司の経営不振などで心身共に疲れ果て、1884年にマカオへ隠居し、ここで「富強救国」の思想を著作「盛世危言」としてまとめ上げます。中華民国成立後は教育事業に力を注ぎ、1922年に逝去。その後、ここ「鄭家大屋」は、1950年代になって賃貸に出されるようになったので、一時は70余世帯約300人がこの中で暮らしていたそうです。

イメージ 3 ▲「通奉第」とは明新時代の文官の官職で、その官職の者の住宅だったことを示してます。

イメージ 2 ▲建物の奥へと続く細い廊下。突き当たりは何かの祭壇のよう。

イメージ 7 ▲正方形の中庭(方形内院)。二面は回廊に、二面は住宅棟の壁になっています。

 一度に入れる入場者数は200人という制限があるようですが、僕が行ったときは参観者は少なく、静かにゆっくりと、19世紀の古き良きマカオへとトリップすることができました。

 「鄭家大屋」をあとにし、媽閣街から続く「高樓街(Rua do Padre António)」を東へ進むと、左に現れるのが「聖ローレンス教会(Igreja de São Lourenço)」。マカオ三大古堂の一つで、ちょうどミサが行われているところでした。ここを裏手に回り、「三巴仔横街(Rua do Seminário)」へ出ると、「聖ヨセフ修道院及び聖堂(Seminário e Igreja de São José)」。1746年から1758年にかけてイエズス会が建て、イエズス会追放後はラザロ派が引き継いだ聖堂です。門が閉まる直前に建物のそばまで入って参観してきました。

 ここでタイムアップ。初めての場所もいろいろと散策し、世界遺産のマカオを満喫。最後に夕食を食べて香港へ戻ろうとしたら、週末だけにターボジェットが満席続きで、22:00発の便まで空席がない。しかもスーパークラスしか空きがない。しかたないので、泣く泣くスーパークラスのチケットを買って、22:00の便に乗りました。初めてのスーパークラス、出航後軽食が出るんですが、簡単なサンドイッチとブドウゼリーとミネラルウオーター。こんなの要らんわ~~。

イメージ 10 ▲ターボジェット・スーパークラスの軽食。おいしいものを食べた後にはこれは要らん。