毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

ヒイキ(ハノイでクリスマス!;その19)

イメージ 1 ▲科挙に合格した「進士」たちの名前が刻まれた石碑群。

 2014年12月27日、ヒイキのヒキ倒し。

 「Văn Miếu-Quốc Tử Giám(文廟-国子監)」の見学を終え、「Thiên Quang(ティエンクアン)池」のところまで戻ってきました。

 ここで忘れてはならないのは、池の両側にずらりと並んでいる石碑です。これらは「Bia tiến sĩ(進士碑)」、「進士題名碑」と呼ばれています。

 官僚登用試験である「科挙」はベトナムでも行われていました。始まったのは1075年で、終わったのは1919年。中国で科挙が廃止されるのは1905年ですから、ベトナムではそれよりもさらに14年間続き、ベトナムは東アジアで科挙が最も遅く廃止された国になりました。

 ここには、それぞれの年に科挙に合格した人、つまり「登第者」即ち「進士」の名前を刻んだ石碑が並んでいるのです。

イメージ 2 ▲ずらりと並ぶ「進士碑」。台座には「贔屓」がいる。

 池の両側に屋根が架けられ、その下に「進士碑」がずらりと並んでいます。その数、82碑。いちばん古いのは1442年に合格した進士たちの碑、1779年がいちばん古いようです。

 石碑は亀の形をした台座に載っています。この台座を「亀趺(きふ)」といいます。そして、多くの解説やガイドブックが、これを「亀」だとしていますが、多少なりとも中国の歴史をかじり中国の史跡を見て歩いたことのある人なら、これが「亀」ではなく「贔屓」であることがすぐにわかるはずです。

 「贔屓」は日本語では「ひいき」と読んで、「ひいきの引き倒し」などと使いますが、これはもともとは中国における伝説上の生物です。その姿は亀に似ており、重きを負うことを好むとされ、したがって古来、石柱や石碑の台座になっているのです。ベトナムには、ホアンキエム湖の「亀の塔」など亀に関する言い伝えが多くありますが、だからと言って全部いっしょくたにして「亀」にしてしまうのは正しくないです。石碑を背負っているのは「贔屓(正しくは「贔屭」)」であります。

イメージ 3 ▲「大中門」の両側にある小門。こちらは「達才」と書かれた門。

イメージ 4 ▲正門の「文廟門」から「奎文閣」までの間に広がる庭園の樹木はみごとなものばかり。

 ティエンクアン池と「進士碑」がある敷地を、奎星が窓に描かれた「奎文閣」をくぐって出ると、また広い庭園が広がります。入ってくるときの記事では紹介しませんでしたが、正門の「文廟門」から「奎文閣」までの間にはもう一つ門があり、「Đại Trung Môn(大中門)」といいます。その両側には石造りの小さな門があって、それぞれ「「成徳」、「達才」と書かれています。施されている彫刻もおもしろく、見逃さずにじっくり眺めたい門です。

イメージ 5 ▲正門「文廟門」の上部にズームアップ!

 そしてようやく、正門である「Văn Miếu Môn(文廟門)」まで戻ってきました。ここを出てしまうと再入場できませんので、最後にじっくり「文廟門」を眺めてみます。最初は木造だったのが、後黎朝後期(17-18世紀)に石造りに建て替えられたと言われているそうで、龍や虎のレリーフが施されるなど、見応えのある建造物。風雨にさらされて生じた黒ずみなどともあいまって、風格十分です。

 「文廟」にはたくさんの門がありました。中国でも同様ですが、その真ん中の通路というのは皇帝しか通ることが許されなかったので、それ以外の者は脇の通路を通ったものです。史跡となった今ではもちろんそのような規則はないのですが、案内してくれているハンさんは、決して真ん中の通路を通ろうとはしません。かつてその真ん中を通ることができた者への尊敬の気持ちを忘れずにいる姿に感心しました。もしかすると、多くのベトナム人が、そのような気持ちを今も持ち続けているのかもしれません。

イメージ 6 ▲敷地の内側から見る「文廟門」の全貌。どっしりとした風格が伝わってきます。