毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

餃子が食べたくなったら瀋陽へ(その7)

イメージ 5 ▲満州事変60周年の1991年に建てられた瀋陽の記念館。日めくりカレンダーを模したものです。

 2014年11月15日、「九・一八」の跡。

 瀋陽会武街でなつかしの土鍋米線を食べたあとは、瀋陽と言えばはずせない、というか避けて通ることができないというか、そんな場所へ行ってみます。

 それは、「日中戦争」とも「十五年戦争」とも言われる先の戦争の始まりである「満州事変」の発端となった「柳条湖事件」あるいは「九・一八事変」の発生現場です。ここへ、久しぶりに足を運んでみました。

 「柳条湖事件」がどういう事件でその後どういう展開を見せたかは、それぞれご自身で調べていただくとして、事件の始まりとなったのは、1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、当時の奉天郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で起きた関東軍による爆破事件です。この爆破現場脇には、事件発生60周年を記念して1991年に記念館が建立され、その後1999年には江沢民の肝いりでその裏に巨大な新館が「『「九・一八』歴史博物館」としてオープンしています。

イメージ 1 ▲学生のグループ参観も多く、愛国主義教育基地として浸透しています。みんな明るいですが(^^ゞ。

 爆破地点には、それとわかるように関東軍がコンクリート製の「炸弾碑」を建てましたが、それはやがて中国側によって倒され、今は倒されたままの「炸弾碑」が、日本軍国主義の悪行の象徴として、屋外に展示されています。当初は最初に倒されたままの場所に置かれていましたが、僕のうろ覚えな記憶では、1991年の旧館と1999年の新館がオープンしたときに展示場所が移動したような気がします。

イメージ 4 ▲今は線路寄りではなく道路寄りの方に置かれている「倒れた炸弾碑」。

 ところで、以前から「炸弾碑」のそばに一緒になって倒れて展示されているものに、「奉天忠霊祠石碑」というのがあります。現在毛沢東像が立っている中山広場は当時「千代田広場」と呼ばれ、そこには1910年(明治43年)に「忠霊塔」が建てられたとされ、その「忠霊塔」は1925年(大正14年)に「市街の中心部」に移設されたとされています。また、康徳8年(昭和16年)12月31日に奉天交通株式会社から発行された「奉天案内」は、観光バス運行会社の「案内者の説明を其の儘編輯した」ガイドブックですが、これには「此の忠霊塔には、日露戦争奉天大会戦の犠牲者三万四千八百七十五柱を始め、鄭家屯事件の十二柱と満洲事変以降の千二百三十柱を合せて、三万六千百十七柱をお祀りしてございます。」、「奉天忠霊塔は、明治三十九年七月に軍部が主体となり、あちらに納骨堂を建てゝ御霊灰を奉安されましたのが始でございます。其の後、大正十四年九月に、現在の忠霊塔が落成と共に御霊灰も遷されました。」、「あちらの小銃弾型の碑は、明治三十九年に建てられた忠魂碑でございます。」と書いてあるそうです。

イメージ 2 ▲これもまた倒されたままの「奉天忠霊祠石碑」。

 この石碑には「霊骨ヲ千代田廣場ノ神域、砲弾塔下ニ奉安シ、明治四十三年以降、春秋祭典ヲ挙ゲシニ剏マル」と刻まれています。明治43年という年、千代田広場という場所、「砲弾塔」が「奉天案内」の「小銃弾型の碑」を指していると思われることから、この石碑がいう「奉天忠霊祠」とは、「忠霊塔」のそばに「御霊灰を奉安」するための「納骨堂」のことではないかと思われます。なお、この石碑の側面には「奉納者 富山縣 粟林豐次郎」と刻んであります。

 そして注目されるのは、この石碑の銘文の冒頭に「奉天忠霊祠ハ靖国神社ノ神霊ヲ分祠シ奉ル」と刻まれていることです。分祀はできないとする靖国神社の主張を覆しそうな碑文です。これは日本では議論になっていないのでしょうか?

イメージ 3 ▲いちばん右の行に「奉天忠霊祠ハ靖国神社ノ神霊ヲ分祠シ奉ル」とあります。