岡城の歴史(ニッポンの秋を探して・その29)
▲竹田の岡城の城址入口。
2011年11月7日、長湯温泉を去る。
長湯温泉「御前湯」の前には「道の駅ながゆ温泉」があり、地元の物産などが勢揃い。地元の農家の方々が作った獲れたてで新鮮な野菜は、すぐにも買って料理をしたくなります。
道の駅をぶらりとひやかしたあとは丸長旅館に戻ってレンタカーに乗り、もっといたいけれど残念ながら長湯温泉を出発!また来ますからね~。
▲駐車場からしばらく歩くと、二股に分かれた道が見えてくる。
▲右へ進めば石垣の外側を白滝側に沿って進む散策道。
▲左の上り坂を進めば本丸跡へと続きます。
僕は初めて岡城を訪れたのは2005年8月の暑い盛り(そのときの記事はコチラ。)。今回はそれ以来の2回目になります。前回は豊後竹田駅から電動自転車をレンタルしてやってきましたが、今回はレンタカーなので楽々アプローチ。岡城址の入口には広い駐車場が完備してあって、なんなくたどり着くことができました。
城址の中まで車で乗り入れることは禁止されているので、駐車場に車を停めて、受付で入場料を払い、城址入口への道を歩いて行きます。入場券は「岡城寶歴の絵図」の一部や見取り図なども描かれた立派な巻物風。ここでは杖を借りることもできるので、長く歩くのに少々不安な人には大きな助けになります。
▲時の流れを経た石垣が幾重にも折り重なる。
▲石垣の隙間から勢いよく草木が生え伸びているところも。
僕が岡城のことを知ったのは、このブログでも既に何度か書いていますが、実は大林宣彦監督の大分三部作の第一作映画「なごり雪」を見たのがきっかけ。この映画の中に、臼杵に住む主人公たちが夏休みの一日を利用して岡城址を訪れるシーンが出てくるんです。主人公たちに変化が生じるきっかけとなる重要なシーン。
巻物のような入場券に書かれている「岡城の歴史」によれば、1185(文治元)年、大野郡緒方莊の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた源義経を迎え入れるために築城したと伝えられています。
その後、中世では豊後国守護大友氏の分家で大野莊志賀村南方に住む志賀氏が、1369(応安2)年よりあとに直入郡へ入り岡城を居城としました。1593(文禄2)年に志賀氏が城を去ると、翌年には中川秀成が播磨国三木城から入部し、近世城郭の整備を急ぎます。この結果、1597(慶長元)年には本丸が完成します。しかし明治に入って版籍奉還を迎え、廃藩置県によって中川氏が去ると、城の建物は1874(明治7)年に大分県による入札・払い下げですべて取り壊されてしまいました。
▲石垣の足下にあまりにも色鮮やかな
▲時々振り返りながら晩秋の岡城の散策道をゆっくりと上っていきます。
つづら折りのゆるい坂道は片面に立派な石垣が立ち、見事な黄色に色づいたカエデの木もあり、秋の散策にはもってこいの場所のように思われます。
つづら折りの道を上りきると大手門跡。そこから中に入って朱印状倉跡、中休所跡、桜馬場跡、籾倉跡などを通り過ぎて突き当たるとまた大きな石垣に突き当たり、ここが西中仕切跡、それを内側へ入ると、太鼓櫓跡です。太鼓櫓門は城の中枢である本丸・二の丸・三の丸へ入る最後の関門なので、出入りが特に厳しく管理されていたそうです。その太鼓櫓門跡を抜けると三の丸に入ります。
▲どっしりとした石垣が両側にあるのは太鼓櫓門跡。ここから内側が三の丸。