毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

ニッポンの秋を探して(その10;滝廉太郎終焉之地)

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             ▲大分市内遊歩公園にある滝廉太郎の像。

 2011年11月5日、春高楼の花の宴。

 大分市の雨、少し小降りになってきました。

 大分県庁舎別館脇の公園に立つ聖フランシスコ・ザビエルに別れを告げ、遊歩公園をさらに南へ下ると、そこには滝廉太郎終焉の地があります。

 滝廉太郎が幼少期に豊後竹田に暮らし、岡城址でよく遊んだことを背景に、「荒城の月」が岡城址をモチーフに作曲されたというのは知っておりました(関連記事はコチラ)。しかし、終焉の地が大分市だったというのは初めて知りました。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818151451.jpg ここが「終焉之地」。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818151445.jpg 遊歩公園の「終焉の地」標識。

 大分県庁脇の遊歩公園に「史蹟滝廉太郎終焉之地」と書かれた標識が立っています。

 滝廉太郎は、1879年(明治12年)に東京で生まれました。父親の仕事の関係で10才から15才になるまでを大分県内で過ごし、その後は東京音楽学校を経て、1901年(明治34年)には日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生としてドイツ・ライプツィヒ音楽院に留学します。しかし、わずか2ヶ月後に肺結核を発病し、1902年には帰国を余儀なくされ、父の故郷である大分県で療養することになり、翌1903年(明治36年)6月29日、当時の大分市稲荷町339番地の自宅で死去したのです。それがこの「終焉の地」の標識が立つ場所なのでしょう。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818151455.jpg 1950年設置の廉太郎像。

 同じ遊歩公園の「終焉の地」の標識の道路をはさんだ反対側には、滝廉太郎の銅像があります。

 この銅像は1950年(昭和25年)10月に、「東洋のロダン」と称された明治~昭和期の彫刻家朝倉文夫の製作により設置されたもので、背面下部には朝倉文生自筆の滝廉太郎との関わりを書いた文が刻まれています。滝廉太郎は朝倉文夫の中学の先輩に当たるのだとか。23才と10ヶ月で生涯を閉じてしまわねばならないとはあまりに短い。いや、あるいは当時はごく普通にあったことかもしれませんが、そうであればなおさら、人生の一刻一刻を無駄にすまいと必死になって生きるということが、明治期の人間にはできたのかもしれません。

 そんな思いに駆られた滝廉太郎の像を背に、小雨の降る大分市内を今しばらく散策し、再び大分駅へ戻ってきました。駅前広場では開業100周年記念イベントがまだ続いていて、交通規制のため一般車両は駅前ロータリーには入れないようです。我々はここから再び列車に乗って旅を続けます。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818151459.jpg ▲ぐずついた空の下の大分駅。駅前広場では記念イベントが継続中。