毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

京奉鉄路信号所址

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214746.jpg ▲北京と奉天(現瀋陽)を結んでいた京奉鉄路の線路の一部。

 中秋節の三連休の初日10日は北京は終日冷たい雨でとても出歩く気になれなかったけれど、翌11日は朝から晴れたので、友人を連れて僕のお気に入りの散歩コースへちょいと出かけました。

 僕のお気に入りの散歩コースというのは、「明代城壁公園」のこと。北京駅のちょい東側にある、かつての北京城の内城の城壁が残る一帯で、その東南の角にあたる部分は立派に修復され、大きな「角楼」がそびえています。ここへ散歩に行き、城壁の上から北京駅を行き交う列車を飽かず眺めたことはコチラの記事でレポート済みです。

 ここは城壁に沿って青い芝生の広がる緑地帯のような公園が整備され、ところどころにベンチもあって、散歩にはうってつけで、今回は、前回行かなかった、修復されずにそのままの状態が保たれている城壁のほうまでのんびり歩いて行ってみました。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214727.jpg 北京内城の城壁が残る。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214732.jpg 修復されないままの姿。

 こちらのほうまで歩くのは初めてだったのですが、そこで初めてのものに遭遇。

 それは「京奉鉄路信号所」。

 コチラの記事にも書いたとおり、今の北京駅は1959年に中華人民共和国建国10周年を祝賀するために建設されたもので、その竣工は1959年9月10日。それまでは、天安門広場の南端にある正陽門の前に駅がありました。1901年に開業した「京奉鉄道正陽門東駅」です。

 「京奉鉄路」は、もとは「関内外鉄路」といい、1907年に「京奉鉄路」と改称したものです。北京正陽門駅を起点、奉天城(瀋陽)駅を終点とする幹線長842kmの鉄道線で、英露がこの鉄道建設のための借款権をめぐって熾烈な争いを繰り広げましたが、最終的に英国が1898年に清国政府との間に借款契約を締結し、その路線権を手中に入れ、1912年、京奉鉄路は全線開業に至ります。

 そして、ここにあるのが、その「京奉鉄路」に最初に設けられた信号所の址なのだそうです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214737.jpg 京奉鉄路最初の信号所。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214742.jpg その案内板。

 この信号所は、1901年、前門駅と同年に 英国の鉄道エンジニア、クロード・ウィリアム・キンダーによって設計建造されたもので、100年以上を経て、ほぼ原型をとどめて現存しているのだそうです。

 また、信号所の建物前には、ほんのわずかですが、ポイントの一部と思われる線路が残っており、これがまさに正陽門から東便門へ至る京奉鉄路の線路の一部で、2002年9月にこの明代城壁公園を造成する過程で発見されたものだそうです。

 信号所址のすぐ北側は内城の城壁址で、城壁の内側はすぐ現北京駅の構内です。つまり、今から50年ぐらい前までは、鉄道は内城の城壁の外側、現在の鉄道線の少し南側を天安門広場の南端のところまで走っていたということです。今となっては線路はほんの数メートルが残るのみで周りには青々とした芝生と樹木の公園が広がっているだけですが、かつてはこの城壁の外側を盛んに列車が行き交っていたのですね。想像するとなんだかワクワクしてきますp(^-^)q。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818214752.jpg ▲わずかに線路が残るだけで周辺は緑豊かな公園。ここをかつてはたくさんの列車が行き交っていた。