毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

【社説】あの日を記録していたカード

イメージ 1 ▲これ、僕の記名式SUICAです。羽田発青森行きの機内で撮りました。

 4月16日、北京から青森に帰ってきました。

 今回は、北京から羽田行きの中国国際航空に乗り、羽田でそのままJALの国内線に乗り継いで青森まで飛びました。

 羽田空港国際線ターミナルでは、国内線への乗り継ぎチェックインを済ませるとそのまま専用バスで国内線第1ターミナルへ行くことができ、初めてそれを利用したときの様子は以前既にご紹介済みですが、今回は時間に余裕があったので、まだ利用したことのない国際線ターミナル駅から国内線第1ターミナルまでひと駅を東京モノレールで移動してみました。

 ところが、持っているSUICAで自動改札を通ろうとしたら、ピンポーンという音とともにバタンとプラップドアが閉じました。あれっと思ったのですが、「出場記録なし」という表示が出ています。

 しかたがないので有人改札のほうへ行って駅員さんにSUICAを手渡すと、駅員さんはSUICAを読み取り機にあてて、「あ、地震の日ですね」と言いました。

 あっ、そうでした!

 3月11日のあの日、僕は午後1時半頃北京から成田空港に到着し、新スカイライナーで日暮里駅に出て、日暮里駅からSUICAでJRに乗換え、山手線の内回りに乗り、田端駅で停車中にあの大地震に遭ったのでした。電車をあきらめた僕は田端駅の外に出たのですが、直後に停電なども起き、田端駅の自動改札はすべて素通り状態になっていたことを思い出しました!僕のSUICAは田端駅での出場を記録できず、そのせいで3月11日という日が刻み込まれたままになっていたのです。

 僕はあの日の夜、泉岳寺駅から羽田空港国内線第1ターミナルまでの約18kmを4時間かけて歩きました。昨日羽田空港に行ったら、「あ、あの晩、僕はあのへんを歩いていたんだ」とか、第1ターミナルの出発ロビーで「そう言えばこのあたりの床で横になって寝たな」とか、あの日の夜のことが思い出されました。

 SUICAが記録していた「あの日」。

 あれからもう40日近くが経とうとしていますが、被災地では今もまだ復興の端緒にも就けない状況が続いており、青森県津軽地方など具体的な被害がなかったところでも風評被害や、過度の自粛による被害が日に日に深刻なものになっています。

 僕のSUICAは、昨日東京モノレールに乗ったことで「あの日」の記録は消えてしまったけれど、僕自身は「あの日」のことを決して忘れてはならない。昨日自動改札のフラップドアが閉じたことは、そのことを僕に改めて思い出させてくれたのです。がんばれ、ニッポン。一緒に、がんばろう。

イメージ 2 ▲国内線第1ターミナルから国際線ターミナルを望む。僕はあの日、あの向こうからここまで歩いた。