毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

「小ポタラ宮」遼寧阜新瑞應寺

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210610.jpg ▲「小ポタラ宮」と称される瑞應寺の大雄宝殿。

 2009年6月28日、1年前の思い出。

 北京に来て丸1年がたちました。今日は1年前を思い返して、昨年7月3日に瀋陽を離れて北京へ来る直前の昨年6月28日に遼寧省阜新市を訪れたときのことを書こうと思います。

 このときに乗ったK7357次列車についてはすでにコチラの記事でご紹介済みですが、今日は阜新市にある瑞應寺というお寺を紹介します。この瑞應寺、なかなかおもしろいんですよ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210546.jpg 瑞應寺入口の門。

 瑞應寺があるのは阜新市の中心部から少し西へ行った阜新蒙古族自治県仏寺鎮。農地と草原がゆるやかな斜面を描きながら果てしなく広がるのどかすぎる農村地帯です。

 ここに瑞應寺が創建されたのは1669年(康煕8年)のこと。チベット仏教の古刹で、チベットのことを中国では「西藏」といいますが、これには「チベット仏教の西の聖地」というような意味合いがあり、これに対して瑞應寺は東の聖地という意味を込めて「東藏」と称されています。どうしてこんな辺鄙なところにそのような重要な寺院が建立されたのかわかりませんが、道光年間の最盛期には 総面積18平方キロの敷地の中に97座の寺院があり、部屋の総数は3000余室を数え、法相学院、医薬学院、時輪学院、密宗学院という4学府も設置されて、ラマ約3000人が暮らし、高僧大徳を輩出していたそうで、ラサの「ポタラ宮」に対して「小ポタラ宮」とも呼ばれていました。

 確かに、寺の本殿である大雄宝殿は、規模こそ違え、外観はポタラ宮にそっくり(ラサに行ったことないのでよくわからんけど)。ちなみに瑞應寺の活仏は現在第7代で、ゲルク派から甘粛省合作市夏河県ラプラン寺の活仏が「銀盆選丸」と呼ばれる方法で選定した僧だそうです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210553.jpg 正門を入った全景。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210615.jpg 確かにポタラ宮に似てる。

 正門から中に入ると、両脇には鐘楼と鼓楼があり、中央には巨大な鉄製マニ車があります。マニ車といっても国鉄時代の荷物客車のことじゃないっすよ。チベット仏教ではこれを一回まわすと経文を全部読んだことになるという便利なアイテム。しかし、ここのマニ車はでかすぎて重すぎて一人では回せない。一人で回せず他人の力を借りなければ回せないということは、経文を読むにも人の力を借りなければならないということで、誰かに助けてもらわなければ何もまともにできない僕の人生そのもののようであり、とほほである。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210559.jpg この内側にマニ車が。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210604.jpg 一人じゃ回せない。

 マニ車を回して、拝殿(祈願殿)を回り込んで歩み進むと、正面にその「小ポタラ宮」たる大雄宝殿が現れます。うーん、確かにこれを何回りか大きくすればラサのポタラ宮に見えるかも。

 大雄宝殿に向かって左側には藏経閣があります。教典の保管場所です。中に入ると撮影禁止なので、ちょっとずるをして正面外側から中を覗き込んで撮影です。正面には仏像が安置され、その後ろ側の壁にはびっしりと書棚が並び、そこに教典が置かれています。教典はもちろんすべてチベット語で書かれています。瑞應寺のお坊さんたちは全員モンゴル族ですが、モンゴル族の人々のとってはチベット語は学びやすい言語ではないでしょうか。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210622.jpg 藏経閣正面。

 藏経閣入口上の軒先には立派な扁額が掛かっています。金龍の彫刻に縁取られた扁額には「瑞應寺」の文字が漢語、満語、チベット語モンゴル語の4言語で記されています。北京の故宮にある多くの建物にも扁額が掛けられていますが、故宮の扁額は漢語と満語のみ。4つの言語で扁額が書かれているのは新鮮に見えます。この扁額は康煕帝が自ら下賜したものなのだとか。漢満だけでなく、チベット仏教であり、それがモンゴル族の人々によって運営されていることを尊重して4言語併記になったのではないでしょうか。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210626.jpg 4言語併記の扁額。

 ところで、今の瑞應寺の建物は、大雄宝殿を除いてみんなすごく新しく見えます。実はこれら建築物のほとんどはごく最近復元されたばかりのものなのです。

 寺院の歴史としては350年の長い歴史を有するものの、建築物などは1960年代から70年代にかけての文化大革命でほとんどが破壊されてしまったのです。大雄宝殿だけが、文革中に破壊に携わった紅衛兵たちが倉庫に使ったために、古い建物のまま残っています。それ以外は、歴史を物語る資料ともども破壊し尽くされたのだそうです。敷地内の一角に資料展示室があり、歴史をたどる写真パネルも並んでいますが、中には日本兵がたくさん写っているものもあります。尋ねると、「戦争当時、このあたりにも多くの日本軍が駐屯したが、日本人たちは瑞應寺の存在を非常に尊重してくれ、宗教行事にはいつも参加してくれてていた。文革で寺の写真などが全部散逸してしまったが、日本人が当時撮った写真を保存してくれていて、この展示室のために提供してくれた」ということでした。

 瑞應寺の修復は1997年になってようやく許可が下り、2005年には山門殿、天王殿、藏経閣、護法殿、仏祖殿、九臣殿、長寿塔、鐘楼、鼓楼が相次いで再建されました。現在は、仏典等を学ぶ法相学院の校舎(総合教学楼)が工事中で、完成すれば再びここで多くの僧たちが学問に励むことになるのでしょう。

 大雄宝殿の裏手には、真っ白な長寿塔があります。高さ18m、塔座には雪山獅子の図が彫刻されています。ここは観光スポットとしてのみ存在しているのではなく、ばりばり現役の寺院なので、敷地の中では僧衣をまとったモンゴル族の若い僧たちをたくさん見かけます。読経の時間でもなく修行の時間でもないときの彼らは、ただのだらけた若者に見えます(笑)。それはきっと350年前の創建当時も今もあまり変わっていないのでしょうね。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818210631.jpg ▲瑞應寺のいちばん奥まったところにある長寿塔。