毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

宗谷岬でタコしゃぶplease!(その36;手宮線跡)

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818142840.jpg ▲今でも列車が走ってきそうな軌道が残る手宮線跡。

 2009年9月8日、手宮線跡。

 運河沿いの通りから中央通りを小樽駅へ向かう途中、踏切に出くわします。手宮線の跡です。

 先ほど運河プラザで手宮線の歴史をひととおり学びましたので、ひときわ親近感があります、この手宮線跡。歴史的遺産として、レールだけでなく、踏切の警報機や遮断機の一部なども保存されています。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818142831.jpg 歴史的遺産、手宮線跡。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818142835.jpg 大通りにも線路が残る。

 手宮線は、現在の函館本線南小樽駅から海側へ分岐して、小樽市内の手宮駅、さらにその奥の高架桟橋まで線路が延びていた鉄道です。開通はなんと1880年、北海道で最初の鉄道です。営業キロは2.8km。旅客列車も走っていましたが、手宮線の主たる役割は、官営幌内鉄道として開業した9年後に北海道炭礦鉄道に譲渡されたことからもわかるように、幌内、三笠、幾春別地区の炭坑で産する石炭を、手宮駅の先の桟橋から積み出すことであったろうと思われます。それに加えて、小樽の海産物の積み出しにも使われたことでしょう。道内各地での炭坑業や、小樽などのニシン漁など海産物産業が隆盛を極めた時代は、手宮線を行き交う列車もさぞや活気に満ちていたことでしょう。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818142845.jpg 線路脇には遊歩道が。

 しかし、ニシンはとうに捕れなくなり、やがて道内の石炭産業にも斜陽が訪れます。まず旅客列車が廃止され、貨物輸送量の減少に伴い、1985年に全線廃止となります。道内の石炭産業と盛衰をともにしたという点では、道内各地の廃線と同様の運命をたどったということになりましょうか。

 手宮線が他の廃線と比べてまだしも幸運であったのは、歴史的遺産としてほとんどの軌道がそのまま保存されたことではないでしょうか。地元では手宮線をLRTとして復活させようとの提案も出されているのだとか。富山港線のように廃止と同時にLRTが引き継いで成功する例はありますが、廃止25年を経てLRTとして鉄道が再生した例はないでしょう。前例はなくとも、鉄道ファンとして、列車の走る手宮線の復活を、やはり望まずにはいられません。

 手宮線踏切をあとに、ゆるやかな上り坂になった中央通りをのぼりつめ、小樽駅にたどりつきます。小樽駅の開業は1906年手宮線に遅れること26年です。現在の駅舎は1934年竣工の3代目。小樽の旅を終えて、ここから札幌へと戻ります。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818142849.jpg ▲さんさんと降り注ぐ初秋の日差しの下、小樽駅