毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

今も残る「北大営」

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204000.jpg ▲「北大営」のバス停。

 僕が今住んでいる中国の瀋陽というところ、日本のみなさんにはあまりぴんと来ないかもしれません。しかし、「以前は『奉天』と呼ばれていた」「1931年9月18日、『満洲事変』〈『柳条湖事件』『九・一八事変』)が起きた場所」と言えば、だいたいの方は「ああ、その場所か」と思い出していただけるでしょう。

 いわゆる「柳条湖事件」は、奉天(現在の瀋陽)の西郊の柳条湖というところで関東軍が鉄道を破壊し、事件現場近くにあった当時の中華民国軍の兵営である「北大営」から爆音に驚いて出てきた兵士らを攻撃し、北大営を占拠した事件であるとされ、これ以降、関東軍瀋陽入城、全面的日中戦争への突入となっていくその発端の事件です。

 そんなわけで、「北大営」というのは兵舎の名称で、地名ではないと思っていたのですが、ある日家の近所でバスを待っていたら、「北大営」行きのバスがあることを知り、びっくりし、2008年8月31日、そのバスに乗って「北大営」まで行ってみることにしました。

 「柳条湖事件」の現場には、1991年に「九・一八歴史博物館」が建てられ、中国の愛国主義教育基地として多くの人が訪れていますが、おそらく「北大営」という兵舎はそのあたりにあったはず。バスもこの博物館の方を目指して西へ西へと走ります。そして、博物館のほぼ真向かいあたりで右に折れ、博物館から遠ざかるようにしばらく南下してから左に折れて再び西へ向かいます。このあたりが「北大営」と呼ばれている一帯のようです。博物館から歩いていけるほどの近さではないので、このあたりがかつて兵舎のあった場所とはちょっと思えませんが、どうでしょう。

 「北大営」というバス停で下車します。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204004.jpg バスは4路線が来ているらしい。

 僕が乗っていったのは253路のバスですが、他に115、256、259路のバス路線も通っているようです。

 見渡すと、だだっ広い通りがまっすぐに走っているわりには車通りは多くなく、なんとなく寂しげ。しかしこの通りの名称は「北大営西路」。「北大営」という名称がしっかり残っています。東へ行けばどこかの交差点を境に「北大営東路」というのもありそうです。通り沿いには「北大営小区」という一角もありました。日本語で言えば「北大営団地」とでもいうか、まとまった住宅地のことです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204011.jpg 道路の名称を示す標識。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204019.jpg だだっ広い北大営西路。

 中国では、建物や土地にはその住所を示す標識が取り付けられています。北大営西路沿いの目に付くところにその標識が掲げてあったので写真を撮りました。「北大営街7」と書いてあります。その下には「郵政編碼110044」とも書いてあります。この場所の住所は「北大営街7番地」で、郵便番号は110044だ、ということです。ここでも「北大営」というのが間違いなく地名として残っていることが窺えます。

 「北大営」というのは、もしかしたら奉天の頃から地名だったのかもしれません。しかし今のところそれを調べることはできていません。一般的には中国軍の兵舎の名称として知られているだけだと思います。それが今も地名として残っている、更に言えば、日本との関係で中国にとってはあまり良い記憶とは言えない名称が今も残っているというのは興味深いと感じました。もし歴史探訪で「九・一八歴史博物館」を訪れることがあったら、「北大営」にも足を伸ばしてみるのもよいと思いますよ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818204025.jpg ▲住所を示す標識にもしっかり「北大営街」の文字。