毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

中国鉄路あっちこっち(塔営子古城址)

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                 ▲雲一つない快晴の青空を背景にすっくと立つ遼代の塔。

 2007年11月20・21日、遼寧省阜新市。

 瀋陽市の北西に阜新市というまちが接しています。中国の行政区画では「市」が「県」よりも大きいので、「市」の中に「県」があることになりますが、阜新市のうち瀋陽市に接しているのが「彰武県」。彰武県の西が阜新蒙古族自治県、そしてその西に市役所のある阜新の市区があります。

 昨年11月、この彰武県と阜新蒙古族自治県とのちょうど境目あたりにある塔営子というところにある塔を見てきましたので、今回と次回の2回にわたってレポートします。今回は鉄道は登場せず、それは次回のお楽しみです-。

 さて、このあたりは916年~1125年の間、遼の国があったところです。高校の世界史のときに出てきた名前なのでもしかして覚えているかたもいらっしゃるか、モンゴル系契丹人の耶律氏が建てた王朝で、初代皇帝は耶律阿保機(教科書のふりがなはヤリツアボキだったかな)。そして、第6代聖宗が自分の娘のために1023年にこの阜新の地に城を築き、「懿州」と称する集落となり、当時は一辺約2kmの城壁が四方を囲っていたそうです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818202249.jpg 古城址は省の重要文化財。

 その城内に建てられたのが、今回見に行った塔営子塔。高さ32mで八角形の13層であったそうですが、現在は8層までしか識別できず、それより上は風化して塔頂はなくなっています。中国でよく見かける典型的な形の塔ですが、今は周辺はごくふつうの農村の集落になっており、その中に溶け込むようにして立つ塔の姿はなかなか趣があります。遼代には多くの塔が建てられたそうで、阜新市内にも17カ所建てられましたが、現存するのはこの塔営子塔を含めてわずか三カ所だとのことです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818202242.jpg 塔頂部はだいぶ風化が進む。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818202237.jpg ▲塔の中程には仏像の彫刻があるが、この部分はなかなか保存状態良好。

 ここへ行くときは瀋陽駅から列車に乗り、彰武駅で車に乗り換えたのですが、翌日西隣の朝陽市のほうでもう一カ所用事があったので、帰りは公営子という駅から列車に乗ることにします。駅へ向かう前に食べた昼食は迫力満点。蒙古族の銅鍋の底にハルサメや酸菜(酢漬けの白菜)を敷き詰め、その上に羊肉やら豚肉やら鶏肉やらエビやら凍み豆腐やら肉団子やらをこれでもかと載せて、スープが見えないじゃないか!というか、煮立ってきたら膨張して上のものが全部あふれるんでないかい?というスゴイ鍋。見た目はワイルドですが、煮立つにつれて染みてきたスープと具材が渾然一体となって、まことにまことにおいしい鍋でした!(^-^)。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818202253.jpg 塔営子に日が落ちる。
 
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818202259.jpg ▲翌日の昼食は蒙古鍋。見た目よりはるかにおいしかったです。また食べたい!