中国鉄路あっちこっち(興城から山海関へ)
▲興城駅から再び列車に乗って山海関へ移動します。
2006年10月7日、興城から。
興城古城をたっぷり散策して、駅へ戻ってきました。内蒙古自治区の赤峰が始発の山海関行きN184次列車に乗ります。興城発は17:27。駅に着いた頃はまだ明るかったのに、改札が始まってホームに入る頃にはすっかり日が暮れてしまいました。
入ってきた列車はまたまたおなじみに緑色の客車たち。サボには「大連赤峰-錦州山海関」「N151/4/5、N184/195、N196/183、N156/3/2」と記され、6本の列車で共通運用されている編成であることがわかります。N184次列車は始発の赤峰を朝08:49に出発し、山海関までの553kmを走る列車ですが、興城からだと山海関までは112kmを残すのみで途中の停車駅も綏中のひと駅だけなので、途中からの乗車でも車内はもうだいぶ空いていました。
夕暮れもだいぶ近い興城駅。
興城から山海関行きN184次列車。
終点山海関着は18:55。駅近くに宿を取って、この日は暮れました。
終点山海関着は18:55。駅近くに宿を取って、この日は暮れました。
翌10月8日は、朝から山海関を見に行きます。
山海関とは明代の長城、すなわちいわゆる「万里の長城」のいちばん東の関所のことです。この東の関所の楼閣を中心に広大な観光公園になっており、復元された部分も多ですが、その城壁や楼閣に登ったり、城壁沿いに散策したりすることができます。
立派な楼閣であります。楼閣には「天下第一関」と書かれた大きな扁額がかかっています。これは、ここから何千kmも西の甘粛省嘉峪関というところにある長城のいちばん西の関所が「天下雄関」と呼ばれるのと対になっています。
北京に都を置く王朝にとってのテリトリーは、東はこの山海関までであり、山海関とその両脇に延びる城壁から一歩東に出ればそこは東方、北方の蛮族(東夷、北狄)が住む化外の地であったわけです。ここより東を関外、西を関内と呼び、またかつて日本軍が中国東北部に進駐して「関東軍」を名乗ったのも、当時この山海関よりも東が関東州と称されていたことによります。
北京に都を置く王朝にとってのテリトリーは、東はこの山海関までであり、山海関とその両脇に延びる城壁から一歩東に出ればそこは東方、北方の蛮族(東夷、北狄)が住む化外の地であったわけです。ここより東を関外、西を関内と呼び、またかつて日本軍が中国東北部に進駐して「関東軍」を名乗ったのも、当時この山海関よりも東が関東州と称されていたことによります。
▲万里の長城の東端の関所「山海関」。この城門を抜ければ関外になる。
東端の関所は「天下第一関」。
城壁の上から北方を見渡すと、楼閣のある城壁からはるかかなたまで城壁が続いているのが見えます。ぼろぼろに崩れているところもありますから、修復されずに当時のものが風化に任せながらそのまま残っている部分も多いのでしょう。遠くの山並みの山腹にも城壁が這い上がっているのが見えます。こうして平地だろうと山岳部だろうと城壁を築き、四方を取り巻き王朝を脅かす異民族の侵入を防ごうとしたわけです。あの山並みに見える城壁がずっと北京まで続き、北京の観光名所の定番「八達嶺」までつながっているわけです。
楼閣から北へ続く城壁。
▲北方の山並みまで目をこらすと、山腹を這い上がるように城壁が築かれているのがわかります。
楼閣の南側、内城の壁。
「天下第一関」を散策したあとは、城壁づたいに南へ向かって歩きます。途中高架橋があり、渡っている途中で、北京方面から高速列車が駆け抜けていきました。牽引は「韶山9G型」電気機関車。2002年登場の最高速度170km/hを誇るハイパワー機関車です。見かけた列車の先頭はSS9-0078でした。後ろに連なる白地に窓周りがブルーの客車はおそらく160km/h対応の25Zか25K型客車ではないかと思われます。どこ行きの列車だったんだろう……
▲「韶山9G型」電気機関車SS9-0078に牽かれて山海関駅近くの高架下を駆け抜けていく客車列車。