毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

2007・年納め全国どさまわり行(その20;佐賀めぐり)

【2009年11月1日の追記】

 2007年暮れのどさまわり旅日記を、書庫移設に伴いリバイバル掲載しています。

 この年の夏に初めて佐賀を訪れたものの、その時は仕事だけでどこも見ることができなかったので、佐賀をじっくりと見るのはこのときが初めて。最初に行ってみたのは映画「佐賀のがばいばあちゃん」のロケも行われたという佐賀城址。名残の紅葉に彩られた見事な石垣を眺めながら歩き、長崎とともに歩んだとも言える佐賀の近代史を学び、充実しました。そして忘れてならない徐福伝説。徐福の上陸地についてはまだ定説はありませんが、金立山麓に立つ徐福像を見ると、「やっぱりここかも」という気になってしまいます。

 佐賀、また行ってみたいですね。

---------------------------------------

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135856.jpg ▲佐賀城址重要文化財「鯱の門」。

 2007年12月1日(土)、佐賀めぐり。

 佐賀で12月を迎えました。仕事の相手先の方々が土曜日だというので佐賀を案内に連れて行ってくださることになりました。佐賀は、昨年8月末に仕事の関係で初めて訪れ、しかしほんのわずかの滞在時間に仕事をしただけでしたので、いろいろ見て回るのは今回が初めてになります。

 この日の佐賀は本当に気持ちよく晴れ上がり、青空に晩秋というよりはもう初冬の名残の紅葉が映えて、まだまだ「日本の秋」を楽しむことができました。

 まずは「佐賀城本丸歴史館」。

 佐賀城は1602年から1611年にかけて鍋島直茂によって築城され、築城当時は五層の天守閣もあったそうですが、1726年に火災で全焼し、天守閣はその後再建されることはなかったそうです。この火災では本丸・二の丸・三の丸も焼亡したので、藩政は再建された二の丸御殿を中心として行なわれましたが、この二の丸御殿も1835年に再び焼失したので、10代藩主鍋島直正1838年に本丸御殿を再建しました。天守閣をずっと持たず、本丸や二の丸の御殿だけで藩政が行われていたというのは珍しいのではないでしょうか。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135851.jpg 佐賀城本丸御殿歴史館。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135904.jpg 立派な石垣が残っています。

 その本丸御殿も、佐賀藩庁や佐賀県庁として利用された後に大正年間に解体されてしまいます。それを2004年に復元してオープンしたのが、この佐賀城本丸歴史館。長崎に近いこともあり、早くから開けていた幕末から維新期を中心にした佐賀の歴史をとっくりと学ぶことができてとてもおもしろかったです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135900.jpg 石垣を囲む紅葉の名残たち。

 それからもう一つ、佐賀で忘れてならないのは「徐福」。今から約2200年前、秦の始皇帝の命により不老不死の薬を探しに日本へ渡ったと言われる徐福の日本の上陸地点が佐賀なのだそうです。まだまだ諸説あり確定ではないようですが、有明海に到達して佐賀に上陸したのが最有力ではないかとのこと。佐賀の徐福長寿館では、徐福渡来の歴史が学べるほか、徐福が探したかもしれない不老不死にまつわる薬草の植物園もあります。広々と広がる庭園には、徐福が日本へ渡った出発地とされる中国江蘇省連雲港市から贈られた徐福像も立っています。この徐福伝説、日本と中国の間の興味の尽きない問題であります。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135912.jpg 中国から贈られた徐福像。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mainichigaharu/20190818/20190818135909.jpg ▲徐福長寿館の裏手は薬用植物園、そしてその向こうに徐福の目的地・蓬莱山に形が似ているらしい金立山