名残の「彗星」、そして火祭り⑧(荒城の月)
2005年8月28日(日)、大分→豊後竹田。
前夜は臼杵石仏火祭りを見たあと大分に出て一泊したので、明けた28日は大分からスタートです。
大分駅で08:20発82D特急「ゆふ2号」を見送ったあと、08:30発豊肥本線豊後竹田行き普通列車4426Dに乗ります。豊肥本線に乗るのは生まれて初めて。真っ赤な200形気動車に揺られて山道を走ります。
大分駅からスタートしまっす。
まずは「ゆふ2号」を見送り。
豊後竹田行き4426D。
そして09:41、終点豊後竹田に到着。ホームに降りたとたんに盆地特有の熱気がぼわわっと体を包みます。あぢぢぢ。
大正13年開業の豊後竹田の今の駅舎は、岡城を模した姿なのか武家屋敷風の造りなのか、白壁に黒い屋根瓦でどっしりとしています。折しも豊後竹田の駅前では24時間テレビの募金活動中。そうか、じゃあ前日の土曜日からずっと24時間テレビをやってるんだな。そのとき初めて気がつきました。
豊後竹田に到着。あづい~。
駅前では24時間テレビ真っ最中。
そうです。豊後竹田と言えば、岡城。郷土の武将・緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをした源義経を迎え入れるため、1185(文治元)年に築城し、その後、中世では志賀氏の居城となり、1586年には島津藩37,000人もの軍勢に対しわずか1,000人で撃退したという戦いぶりに豊臣秀吉から感状を与えられたこともあるという難攻不落の名城は、1593年、中川公の入封によって岡藩の城となったのだそうです。
そして、岡城と言えば、瀧廉太郎の「荒城の月」。
「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎は、12歳から15歳までの少年時代を竹田で過ごましたが、その頃よく遊んだ岡城址を思い浮かべ、岡城をイメージしながら作曲したと伝えられています。作詞をした土井晩翠は、仙台青葉城や会津若松鶴ヶ城をイメージして作詞したそうですから、この歌には様々な日本の「城」のイメージがこめられているようです。
駅に併設する観光案内所で尋ねると、岡城へ行くバスはないとのこと。その代わりその案内所でレンタ電動サイクルが借りられるというので、それに乗って岡城をめざしました。電動自転車初体験でしたが、最初のうちは別に電動じゃなくてもすいすい行けるぜーと走っていたものの、岡城が近づくにつれて道は上り坂になり、電動自転車でもなかなか難儀な道のりでした。
ひいこらへいこらと電動自転車をこぐこと約20分、やっと岡城址にやってきました。
岡城址入口。
明治維新後、岡城は解体されて建造物はすべて破壊されてしまったので、現在残っているのは「荒城」のイメージそのままの広大な石垣群のみ。草木に埋もれながら、立派な石垣が今も堂々とどっしりとめぐっています。映画「なごり雪」にも岡城が登場します。主人公たちが夏休みを利用して岡城にやってきます。映画のストーリーの中では大きな転換が訪れる場面です。
しっかりとした造りの石垣。
石垣を覆い尽くす樹木たち。
三の丸から二の丸にかけての石垣は非常に高く、おまけに手すりも柵も何もありません。築城された当時の姿のまますぅっと天に伸びる姿は見ていてほれぼれします。下の写真のアングルは、確かしばらく前のフルムーンパスのポスターになっていたのではないでしょうか。
▲フルムーンパスのポスターで見覚えありませんか?
▲春高楼の花の宴、めぐる盃杯影さして。
あんなに暑かったはずなのに、岡城址に上がってくると、深い緑に囲まれて、涼しい風が吹き抜け、とてもよい気持ちです。城壁の上をのんびりと歩き回り、売店でかぼすジュースを飲んでのどを潤し、すっかり汗が退きました。
再び電動自転車をこいで向かったのは瀧廉太郎記念館。瀧廉太郎が12歳から明治27年(1894)に15歳で上京するまで暮らした屋敷址です。廉太郎は、多感な少年時代をこの屋敷で暮らし、さまざまな音や音楽を耳にして育ったのでしょう。
瀧廉太郎記念館正門。
廉太郎の感性が磨かれた場所。
「荒城の月」の「春高楼の花の宴」の「宴」の「え」の音を、瀧廉太郎はE#と作曲しましたが、おそらくはその後の山田耕筰の編曲により、#が落ちてEの全音で歌われることが多くなりました。しかし、瀧廉太郎が#を付けたのには当然何か意図があったはずであり、またE#のメロディーを静かに聴き入ると、やはり全音のEである場合よりも染みこんでくるものが違うように感じます。このことについては「廉太郎は日本の伝統的音階を格調高く近代歌曲に創造した」と評されていますが、その感性もまたこの竹田での生活が生み出したものなのでしょうか。
記念館のすぐ近くにある「廉太郎トンネル」をくぐって、駅へ戻ります。