毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

城端線に「油田」現る。(Long Summer Vacation;その28)

イメージ 2▲砺波駅で交換列車待ちのため3分停車する城端行き9337D。

 

 2018年7月14日、アブラダカダブラ。

 

 戸出駅の次は、油田駅。駅名標の「油田」の文字を見てちょっとびっくり。「ゆでん」?このへんは石油が採掘できるんかいな?読み方は「あぶらでん」で、「ゆでん」ではないのですが、どっちにしても、やっぱり石油が出るのかしら?

 

 調べてみますと、もともとは「あぶらだ」と呼ばれていたそうです。やっぱり石油が出るからか?富山のサウジ・アブラダなのか?またはアブラダ・エミレーツ?

 

 真相は、このあたり一帯に、搾油用に栽培されていたエゴマまたはナタネの畑が広がっていたかららしいです。エゴマ油が使われるようになったのは平安時代初期とされ、当時は「灯明油」、つまり明かり用の油として使われていたそうで、これが江戸時代後期からは、生産効率のよいナタネへと切り替わっていきます。隣の戸出駅の「戸出」という地名も、昔は「灯油田(とうゆでん)」という地名だったのが「とゆで」→「といで」と変わって生じたのだそうです。

 

 なるほど~。今はこの周辺にはナタネ畑は残っていないのかしら?

 

イメージ 1▲富山で石油が採れるのかと思った。

 

 アブラダカダブラの次は、砺波。中越鉄道時代に「出町」駅として開業し、今は砺波市の中心駅です。2面2線の相対式ホームがあり、富山県内初の橋上駅舎。上り列車が発着する1番線ホーム際には大きな建物が建っていますが、これは「アパホテル砺波駅前」。砺波と言えば、チューリップか、小学校か中学校の社会で習った散村が思いつくなあ。

 

 3分停車ということなので、また列車交換が行われます。やがて城端方からやってきたのは、城端11:02発の336D高岡行き。2両ともタラコ色車両で、前方の車番はキハ47-36です。

 

 336Dが11:28に到着すると、こちらは発車。向こうもすぐに発車です。 

イメージ 3▲砺波市の中心駅、砺波に到着。

 

イメージ 4▲城端からの336Dと交換。

 

 砺波の次は、東野尻、高儀と続きます。砺波平野の中をのんびり走ります。平野の中を走っているとあまり実感はできませんが、グーグルマップなんかで見ると、砺波平野の「散村」は、確かに家屋の密集がなく、点々としていてなんか不思議!

 

 これには、加賀藩が、一揆の密談を防止するために家の間隔を離して、監視を置いたという説もあるようですが、「開墾した田畑は藩主に属すが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許す」という加賀藩の奨励策によって砺波平野の水田開拓が進んだと言えますが、この奨励策の結果として住居家屋が散在するようになったのではないかと考えられているようです。

 

 東野尻駅があるのは、砺波市苗加というところ。「苗加」と言えば、富山の比較的新しい地酒の銘柄「苗加屋」ではないか。蔵元の「若鶴」(現在の所在地は砺波市三郎丸、油田駅のすぐ近く。)の創業家が、もともと江戸時代には苗加で旅籠を営んでいたのが「苗加屋」という銘柄の由来なのだとか。その旅籠はこの東野尻駅の近くにあったのかも。

 

イメージ 5▲砺波市苗加に所在する東野尻駅。銘酒「苗加屋」が飲みたい。

 

イメージ 6▲砺波平野の散村を見ながら走ってゆきます。

 

 東野尻の次は、砺波市から南砺市に入って最初の駅が高儀。ほぼ市境にあるんですね、この駅。

 

 その次は、福野。その昔、中越鉄道の建設が始まり、1897年(明治30年)5月に最初に開業したのが高岡(黒田仮停車場)からこの福野までの区間。富山県最初の鉄道にして日本海側最初の民営鉄道の最初の起終点駅だったんですね。なんとも歴史のある駅です。

 

 しかも、全然知らなかったことには、福野駅にはかつて、砺波鉄道(のちの加越能鉄道)の加越線という鉄道も通っていたのだとか。1922年(大正11年)までに福野を通って北陸本線の石動まで開通し、1972年まで運行されていたそうです。 

 

イメージ 7▲中越鉄道の中でも起終点駅として最初に開業した福野駅。

 

イメージ 8▲福野駅かた高岡方を望む。右へ分かれているのは橋梁メーカー「川田工業」専用線の名残かな。

 

 福野を出ると、東石黒、福光と続きます。福光では5分停車します。福光の次は、終点城端の一つ前の駅・越中山田です。

 

 福光駅にはホームが2面2線で2本あるので、列車の交換ができます。こちらが先に到着して待っていると、城端発の高岡行き338Dがやってきて、11:52にこちらと同時発車になります。下り列車が発着する2番線ホームには待合室がありますが、ここには紺色地に白い文字で書かれた駅名標。この紺色といい、文字の字体といい、国鉄時代によく見られたホーローびきの駅名標でしょうか。ちょっとぴかぴか過ぎて、模造品のように見えなくもないですが、国鉄時代からのものでしょうか?

 

イメージ 9▲福光駅では5分停車して交換列車を待ちます。

 

イメージ 10▲この駅名標は、国鉄時代によく見られたホーローびきのものでしょうか。

 

 福光駅は、今でこそ南砺市の一部ですが、平成の大合併以前は西礪波郡福光町でした。福光町は、中国との仕事や交流に携わる者にとっては、重要な場所です。戦前昭和から戦後昭和にかけて活躍した政党政治家・松村謙三氏を輩出した場所なのです。

 

 松村謙三氏は、日中国交正常化が実現するより10年以上前の1959年に、自民党顧問として訪中団を率いて訪中し、当時の陳毅副総理と会見して囲碁交流の推進に着手。また、1962年には、のちの日中長期総合貿易に関する覚書(LT協定)のもととなる岡崎嘉平太提案をもって訪中するなど、一貫して日中友好と日中国交正常化に尽力しました。松村謙三氏は、残念ながら日中国交正常化が実現する前年の1971年に亡くなりますが、福光町内には「松村記念会館」があり、その功績をしのぶことができます。2002年には、李鵬・中国全人代常務委員会委員長(当時)がこの記念会館を訪問したこともあります。

 

イメージ 11▲終点一つ前の駅は、越中山田。