毎日ヶ原新聞

日本全国、時々中国、たまにもっと遠くへ、忘れちゃもったいないから、旅の記録。

文武廟の渦巻き線香(ふらり香港行ってみた;その3)

イメージ 10 ▲家族の名前や願いごとが書かれた赤い札とともに吊り下がる渦巻き線香。

 2018年6月18日、地獄へ墜ちたら。

 さて、前回の記事で、香港のハリウッド・ロードに面して建つ「文武廟」は、「東華三院」という香港の慈善団体が管理する「私廟」であることを書きました。その「文武廟」に入ってみましょう。

 前回も書いたとおり、香港の「文武廟」は、「文武廟」、「列聖宮」、「公所」の3つの部分から成っていて、華人の豪商によって建てられたのは1847年から1862年にかけてとされます。華人の豪商というのは、具体的には「盧阿貴、譚阿才という実力家」だとされており、これが「HONG KONG NAVI」というサイトに掲載されているせいか、調べると判で押したようにこの2人が「実力家」として紹介されています。「文武廟」を私財を投じて建てるぐらいだから「実力家」には違いなかったんでしょうけれど、帆刈浩之・元川村学園女子大学教授の論文等によれば、盧阿貴は、かつて香港でよく見られた水上生活者である「蜑民」の出身だが、英国海軍への物資供与の見返りに土地を獲得し、賭博場や売春宿を経営したりアヘンの密売買をしたりして、当時最も裕福で影響力のある華人と言われていた人物だそうですし、譚阿才の方は今の広東省開平市の出身で初めはシンガポールの造船所にいたが1841年に香港へ移って建築業者として成功し、後に移民ビジネスでも富を築いた人物。当時は「会党」や「廟」、「街坊」を核にしながら地域統合が進んでいた時代であり、「文武廟」も、様々なギルドから寄付を受けながら財産を増やして勢力を拡大し、当時の華人社会の強力な指導的組織になっていったのであります。

イメージ 1 ▲「文武廟」の入口。奥の方に渦巻き線香がずらりとぶら下がっているのが見えますね。

イメージ 2 ▲入口上には「神威普佑」と「帝德同沾」の扁額。どちらも光緒帝が贈ったもの。

 さて、建物に向かって左側が「文武廟」です。「文武廟」は「文昌帝君」と「武帝」を祀っています。「文昌帝君」とは、今の四川省綿陽市梓潼県の土地神である「梓潼神亜子」、北斗七星の第一星「魁星」の星神である文昌星、そして東晋代の374年に反乱を起こし蜀王を自称した張育の3柱が習合した神格で、文学や学問、試験の神様。「武帝」は三国時代に劉備に仕えたあの関羽のこと。高名な武将だったので武神として祀られるようになったのですね。文の神と武の神を両方祀っているので「文武廟」というわけです。

 入口上部には「神威普佑」の扁額、その下には「帝德同沾」の扁額が掛かっています。「神威普佑」の扁額の方は、清の光緒帝の頃、1876年から1978年にかけて、中国内地の干ばつが厳しかったことから、東華医院が白銀16万元の義援金を贈ったところ、光緒帝がこれを称えるために1879年に寄贈した扁額だそうです。「帝德同沾」も光緒帝時代のもので、皇帝の徳があまねく行き渡るというほどの意味でしょうか。

 ここから廟の中へ踏み入ると、たいへん煙い。廟の中では線香がもうもうと焚かれ、その中を、観光客だけではなく、参拝客もちゃんとたくさんいて熱心に叩頭しています。祀られている神々へ敬意を表し、清めの意味も込め、また、神々への思いを絶やさないようにとの意味も込めて、煙を絶やさないよう線香が焚き続けられているのだそうです。こういう雰囲気、いいですね。

イメージ 5 ▲いちばん奥の方にしつらえられた祭壇。薄く霧がかかっているような感じです。

イメージ 6 ▲右が「文昌帝君」、左が関羽様でございます。

イメージ 7 ▲文帝と武帝の前には両側に2人ずつ神々が立ち、守護しているのかしら。

 「文昌帝君」と関羽「武帝」を祀る祭壇に向かって確か左側の壁は「十王殿」になっています。「十王」とは、冥界にあって亡者の生前の罪業を裁判する十人の王のこと。死者の審理は、没してのち、通常7回行われます。7日ごとに初七日、十四日、二十一日、二十八日、三十五日、四十二日、四十九日の7回で、死者の罪の多寡によって地獄へ送るか六道への輪廻を送るかが決まります。それぞれの審理を担当するのは、1回目の初七日から、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の順番です。7回の審理で決まらない場合は、追加の審理が3回あり、百ヶ日忌に平等王が、一周忌に都市王が、三回忌に五道転輪王が審理を担当することになっています。地獄で亡者に審判を下す「十王」が勢揃いでこちらを睨んでいるのはいささか居心地悪い気持ちにもなりますが、生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してもらえるとも言われてますから、ここでいいとこ見せておいた方がいいのかも……

イメージ 8 ▲冥界にあって亡者の生前の罪業を裁判する十人の王がずらりと並ぶ「十王殿」。

イメージ 9 ▲いちばん右は2番目の「初江王」(「楚江王」とも。)。「二殿 楚王慈王 陰徳定保 真君」と冥府での名前も。

 ところで、「文武廟」の中に立ちこめるこの煙、線香の煙です。祭壇の前などでは、日本の線香を更に太く長くしたようなまっすぐの線香も焚かれていますが、「文武廟」の大きな特徴はなんと言っても、天井から無数に吊り下げられた「渦巻き線香」。こういう渦巻き線香は、マカオの「媽閣廟(Templo de A-Má )」にもたくさん吊してあったし、南部中国の信仰の特徴かもしれません。

 しかし、この渦巻き線香を見かけるたびに思うのは、これ一つでどれぐらいもつんだろうということ。我が家にも1本吊しておきたい(特に蚊の出る夏は。)と思うのだけれど、もしかして丸1日どころか3日ぐらいもちそうな気がするなあ。

イメージ 4 ▲上下二層に吊された渦巻き線香がズラリ。まさに煙を絶やさず神々への思いを絶やさないの心を体現。

イメージ 3 ▲最下部には灰受け吊してあるけどほとんど効果なし。渦巻き線香の下はうかつに通れないです。

 「文武廟」の隣(つまり建物全体の真ん中)は「列聖宮」。 ここは「諸神列聖」、すなわち観音、城隍、天后、龍母など民間信仰の神々やら仏様やらがたくさん祀られている道教の寺院で、とするといちばん奥の中央に祀られているのは観音様でしょうか。ここも天井からたくさんの渦巻き線香が吊されていますが、入口に近い方の天井からは渦巻き線香ではなくランタンがたくさん吊されていますね。

 ちなみに、建物全体に向かって右にあるのは「公所」。上の方にも少し書きましたが、植民地統治が始まった頃の香港の地域統合は、「会党」、「廟」、「街坊」を核にして進んだわけですが、「街坊」というのはいわゆる「隣組」のことでして、地域のもめごとの調停にあたったりお盆のお祭りの運営などを担っていました。こういう人たちが「文武廟」に集まってそれが華人社会の強力な指導的組織となると、「文武廟」で内部紛争の解決や、契約、裁判、調停、あるいは清朝官吏の接待などが行われるようになっていきましたが、「公所」はそのために使われる場所でした。

 単なる「寺廟」としてだけでなく、華人社会の指導的組織としても、香港社会に深く根付き、今も多くの市民に親しまれ、観光客も大勢訪れる「文武廟」、今回久しぶりにゆっくり見ることができてよかったです。

イメージ 11 ▲「列聖宮」のいちばん奥におわすのは観音様か。

イメージ 12 ▲「列聖宮」の入口側の天井からたくさん吊されているのは渦巻き線香ではなくランタンですね。